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比田井天来

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第11回 「隠岐には日本が残っている」 / 岸田大江

門人の証言

岸田大江氏による第二回には、天来が実際に作品を揮毫する様子が述べられています。その前に書かれている南谷の茶目っ気ぶりも必見です。

第11回 「隠岐には日本が残っている」/岸田大江
第11回 「隠岐には日本が残っている」/岸田大江

天来が隠岐で書いた作品。

国賀は浦郷の西北方にあたる天下の名勝である。こんな孤島にあること自体がおかしいほどの、世にも不思議とされるもので、学問的にも卓絶したものとされている。ぜひ両先生にご覧いただきたいと念じた計画も、切なる島人たちの祈りさえも空しく、大しけにはばまれて遂に姿を見せなかった。せめてもと入口よりの眺望に想いを残して宿舍に帰られたのはちょうど四時、一風呂あびられてくつろがれる両先生のご様子は、ご疲労の風もなく、心からご満足らしくおだやかなものであった。

「国賀はここよりもまだいいのですか、ハハハ」と恐縮する校長をさらに恐縮させられる天来先生の思いやりは、さらに小さいところまで行き渡る。話は次々に先生を中心に展開されていく。

村長が助役をつれて会長とともに紋付に改めて来た。すずしい隠岐とはいえ、八月の末、ムンムンする中を額に汗をにじませ、せわしく白扇をバタつかせながら...。

かねて船中で先生に内々お願いしておいた黒木御所遺趾の建碑奉納の件につき、改めて三人より懇請がなされた。「明日依頼の分を全部すませてから、ゆっくり書きましょう」と快諾を与えられる先生の表情は、何かしら何時ともは異なって見えた。有志達のよろこび様は、文字通り大変なもので、私にまで繰りかえしお礼を言われ、私をすっかりとまどわせるありさまであった。

その晩、五時半から竹並旅館で島人達による歓迎会が開かれた。披露するもののすべてに、殊にこの島のドッサリ節はすっかり両先生をくつろがしめたように見えた。

「隠岐には日本がそのまま残っている」と、その喜びようは大変であり、老妓を側へ呼び寄せて数回も歌わしては、マスターに努力した南谷曹司も、むせび泣くような独特の哀調には大いにてこずりながらも、かえって座を明るくしていた。

両先生の至情と島民の純情が溶け合って、歓楽はいつ果てるとも知れず、天来翁の快笑を中核として流れていった。「侍して来たのだ」と気がついた時はもう相当に酔いが回っている私自身を見出し、すっかり恐縮してしまった。時計は九時を示していた。

至誠館へお帰りいただいたのは、それから数刻の後だった。「岸田君、いいところへつれて来てくれたね」「ほんとにね」。両先生からしんみり言われた私はすっかり嬉しくなり、次々とありがたくなり、なかなか寝つかれなかった。

隠岐丸の入港の汽笛によって、別府の朝がくる。ポンポンとランチの音がさえて聞こえる。今日もまた天気だ。あたりの空気もさわやかに、霞が深くかかっている。全く静かである。

天来翁は何時頃お目覚めだったのか、もう机について仕事をしていられる。だいぶ原稿ができている。寝不足の頭をガンとなぐられたように思った。鹿川が目を真っ赤にして起きてきた。鈴子と磨墨しているのにびっくりして、「あんた方は若いのに早いなあ」「奥さん隠岐はほんとにいいところですねえ」となかなか愛嬌のある執事ぶりである。

「その墨は僕が磨りますから、奥さんはこの唐墨を磨ってくださいよ。このぶんの硯がいいでしょう」と指図もなかなか堂に入っている。

「ずいぶん早く起きていましたね」と小琴先生が食膳に向かわれたとき、妻をねぎらってくださる。鈴子がちらっと私の顔を見た。よほど嬉しく感じたらしい。

味噌汁のからさにも、遠く孤島にきている旅愁が漂っている。両先生を中心にする朝食のなんとうまいことか。

さっきまでカメラを熱心にいじっていたと思ったら、南谷曹司、なぎさに立って魚釣りに興じている。やっぱり質は争えないもの、生活の冴えがうらやましく、明るく、大きい。

小琴先生が九時を過ぎて揮毫を始められた。はや敷島を火鉢の周りに七・八本並べ立てて『隷弁』を見ておられる天来翁の表情は、冒しがたく感ずる。

村長も助役も校長も、そして安藤氏も次室に控えて拝見している。妻が介添え役だ。

御製を十五点作り上げられた。天来翁がこの中より十点を選ばれた。ビリビリと破かれる五点の反故は、もったいない気がしてならなかった。

「鈴子さまがお手伝いしてくださったせいかしら、墨ののびもよく、かなりできたようでございますね」と優しく先生に話しかけられる小琴先生は、どこまでも静かで美しい。

鼻の頭に汗の玉を光らせながら一心に墨磨りにまわる鹿川。一切を私たちにゆだねて介添えをすすめてくれる鹿川の心遣いもありがたく、感謝の心が高まる。

毛氈を机から畳におろしてのべ、ようやく天来先生が代わられた。今度も私と妻が手伝いに立つ。左手に原稿を操っては、豪快に、渾樸に、あるいは叙情的に、そして次は剛断にと、一葉はさらに次の一葉を生んでいかれる。まことに巨人の精魂を傾けての神技といえる。

見るものの魂を底の底から揺さぶり返す。ただ嘆声のみである。やっぱり十五点を数えて、五点をのぞき揮毫を終えられた。

一服とられる敷島に火を点じつつ、「今日はとても気分がよいようでございますね」とねぎらわれる小琴先生のやさしい瞳に快くうなずかれる天来先生。八月の隠岐の天気はやっぱり暑い。

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