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第4回 関東大震災 / 田中鹿川

今回は、大正12年、関東大震災の記録です。長野県にいた天来は、東京壊滅とのうわさに驚き、ただちに鎌倉へ向かいます。そのときの様子が、非常にリアルに再現され、家族に対する天来の愛情が伝わってきます。

大正12年8月より先生に随行して、信州の須坂町、中野町に行き、帰途野沢町の木内武一郎氏方で揮毫の整理をした。9月1日に関東大震災に遭遇した。昼食のため階下に降りようと立ったとたんに大揺れがきた。近所の家の瓦や壁の落ちる凄まじい物音に驚いて、先生と共に逃げ出すつもりだったが、足が浮いて歩けない。座敷の間仕切りの柱が太いけやきの木だったので、それに先生と向かい合って抱きついた。このまま家が倒れてしまうのかと思った。

やっと揺れが小止みになり、慌てて家のものと表に飛び出したが、ものすごい土埃であった。浅間山の噴火だろうと言われたけれど、浅間山は平穏な低い噴煙だけだった。誰かが秩父の爆発だろうなどと言った。余震が頻繁で、その合間に急いで昼食をした。近所を消防自動車が走り出した。

余震はなかなか治まらず、二階へ行ったり逃げたり、ようやくローソクで夕食をしたが、心穏やかでない。先生は穂積へ出かけられた。東京のことが思い出されて、東の窓をあけてみれば、山の端の真っ黒い雲間に、小さく真っ赤な色が浮んで見えた。遠い山家の火事か、または秩父の爆発かなと独り思った。

夜になって余震がさらに大きくなるという噂で、誰一人として家の中に寝るものはない。物置ならつぶれることはあるまいと、布団を移し蚊帳を吊って先生と共に寝たが、余震が恐ろしくて眠れない。近所の人も、裏の桑畑で野宿だ。月は丸く冴えていた。先生と一緒に桑畑に行き、朝方寒くなったのでまた物置に寝ようとすると、裏の道で誰やら「東京全滅だ」と話して通った。先生と同時にガバと飛び起きて、「東京がたいへんです」というと、取る物もとりあえず一目散に中込駅まで駆け足だ。都合よく5時発の一番列車に乗ることができた。小諸駅の乗り換えには群集が殺到して、ようやく二等車に先生の手を取って引っ張り上げた。二等は誰も遠慮していたので、うまく腰掛けられた。後からドヤドヤ乗り込んできて、ここも身動きができないようになった。

汽車は高崎か大宮くらいまでとのことだったが、行けるだけ行くつもりだった。軽井沢駅で「上野駅延焼中」との話であった。大宮駅を過ぎて「赤羽鉄橋傾斜のため不通」ということで、川口駅から鉄橋を徒歩で渡り、汽車を乗り換えまた王子駅で下車、飛鳥山電車の線路を駆け足で大塚駅に着いた。

この辺りから倒壊した家も見掛けられ、朝鮮人騒ぎで町中殺気に満ちていた。音羽護国寺前から神田橋にかけて焼失と聞き、一ツ橋大学付近の延焼中を左に折れ、九段坂からお堀端を廻り、虎ノ門(晩翠軒全焼)から増上寺門前を通りかかった。ここでは避難民救済物資の配給中で、行列の中に芝の人がいないかと目を走らせながら急いだ。芝園橋の上から見ると、前方は火災を免れ、本芝の家は無事だった。ハナは妊娠八ヶ月で、養母と二人ではどうすることもできず、生まれる赤子の着物とおむつ5・6枚を持って、品川御殿山まで逃げた。後に勝利君が会社から駆けつけて、布団一包みを担ぎ出してくれたということであった。

夕方、コンロに火を起こしてご飯を炊き始め、余震に恐れて水をかけ、また燃して生ご飯を炊いたそうである。幸いにも芝橋付近で火を消し止めたので、今やっと家に帰ってきたところだった。家族の無事を見て、ひとまず安心した。余震はなお止まず、さらに朝鮮人の反乱だとか言って人心不安のため、東海道線の線路の上で、近所中の人が野宿した。まず金がなくてはと、先生が持ってこられたお金の中から分けてもらい、養母とハナが胴巻に入れた。

先生は鎌倉が心配で、夜中にも出かけたいと心が急がれたが、途中騒々しくて危険があるので、早朝頭に赤い布で鉢巻をし、お金を胴巻に入れて出発された。私は芝の家も男手がなく心配のため、品川八山橋まで先生をお送りして芝に戻った。

先生は途中急がれたが、15里の道程では日暮になったので、戸塚の小串氏方に一泊した。米を2俵買って、鎌倉に四日の朝早く着いてみると、家は横に倒壊し、家族は幸いにも無事であったが、雨だけしのぐ野宿同様のありさまで、先生のお帰りを一日千秋の思いで待っていられた。 先生は鎌倉から荷物と共に信州に移られ、次に上田市に移り、さらに本芝の近くに引越しをされた。その後、代々木初台町に借家して転居されるなど、引越しの連続であった。

大正15年の暮、大正天皇が御崩御になり、昭和天皇のご即位によって、改元して昭和元年となった。

私は山手線で毎日初台に出勤し、先生の揮毫や出版物のお手伝い、書学院建築のための雑務、旅行の随行などに従事した。給料として金50円也を初めて貰うことになった。

昭和2年、先生は鶴見の土地と交換して、代々木山谷町に二百坪近い地所を得て、ここに書学院を建築されることになった。まず住宅を建て、居を移されて、ご自身は各地の遊歴にお忙しかった。この頃新宿・小田原間の小田急線が敷設中で、まもなく開通した。

第4回 関東大震災 / 田中鹿川

代々木書学院棟上式

第4回 関東大震災 / 田中鹿川

左から二人目比田井小琴、その右は長女ゆり子、右は次女千鶴子。

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