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比田井天来

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第2回 小琴の母 / 田中鹿川

門人の証言

連載二回目は、小琴の母、田中きんに会ったときのことから始まります。天来は、自分が小琴と結婚したのは、母親にほれ込んだためだと語ったそうです。一人娘を嫁がせた後、天来所有の貸家の采配をふるい、天来の仕事を助けました。  天来と小琴が結婚したときの様子は今までよくわかりませんでしたが、この文章でいろいろなことが明らかになりました。

第2回 小琴の母 / 田中鹿川

天来と小琴が結婚したときの写真。右から小琴の祖母、天来、小琴、左下が小琴の母、田中きん。

翌朝、目を覚まして、朝食をすませ、旦那さまに連れられて、電車で外濠線内幸町乗換え三田の薩摩原停留所下車、芝区本芝二丁目六番地の田中きん(後に養母となる)宅に着いた。芝浦花柳界の街の真ん中で、道すがら細い路地から、東京湾の芝浦海岸が見え、海は美しく輝いていた。遠くに品川のお台場も見えた。山家育ちのため、始めて見る海の景色に、何ともいえない喜びと感動を覚えた。

養母は安政四年未年(ひつじどし)生まれで、生来怜悧の質を享け、幼少より三味線の遊芸を仕込まれて、糸も相当達者であった。しかし女でありながら男の遊びが好きで、子供時代には凧揚げも上手だったという。漢籍を習い、四書五経の素読から始めて、相当深く進んだらしい。その折に易学を修めたのが、後に思わぬ助けとなったのである。生活の絶頂から急速に転落して不運となり、やむなく蛎殻町一丁目四番地の米穀取引所付近に転居し、生活のため易占を始め、客の依頼する相場の騰落を占っていた。その頃偶然に、天来先生の父の清右衛門氏と知り合い、交際親密となり、清右衛門氏は上京の都度、ここを宿と定めていた。天来先生は21才の時上京し、一旦帰国し妻を娶ったが、解約して再度東京に出て書道を勉強中だった。父親の用件でこの田中宅を訪ねたことがある。こんな時に、養母は天来先生を見込んで娘を配したく思い、何やかやと親切を尽くしたらしい。養母は酒も飲めるし、習い覚えた遊芸で撥さばきもうまく、清右衛門氏と意気投合したことも当然である。女だから好きな酒も徳利を立てて飲むことをはばかり、茶碗酒で一杯グッと飲んで、上機嫌な顔にホンノリ桜色が出てくると、浮かれぎみに三味線を取って、長唄でも端唄でも糸に合わせて美しい声で唄いだす朗らかな人であった。

私が知っている範囲では、女でありながら洗濯や裁縫は一切やらず、ほころび一つでも面倒くさがり、人手をわずらわすような男性的な人であった。「差配さん」「差配さん」と人にいわれ、貸家の家賃の集金や居住人の世話に熱心で、これが天来先生の経済をまかなっていた。出入りの多い居住人の中には、家賃の不払いや滞納が多く、実に世話に焼ける商売であった。たまには家賃が払えず、夜逃げをするという、落語のような話も実際にあった。大晦日の晩に、「家賃が払えぬから来月まで待ってくれ」と頼みに来て、一杯機嫌で小原節を唄って帰った好人物もいたそうである。

養母は中年になって山田流の筝曲を習い、ついに師範の免許を得て、暇のときに子弟の指導もした。元来三味線の素養があったので、上達が早かったのであろう。その熱心な練習振りは、六段や千鳥の曲の調べが、筝曲に全然縁のなかった私の耳にさえも、いまだにはっきりと焼き付いているほどである。

明治42年春、天来先生は岩戸町から青山北町五丁目に転居されたので、引越しのお手伝いをした。この夏は梅雨の頃から食欲減退し、足は腫れて重く、気分がすぐれなかった。医者は「脚気だから転地より良い療法はない」というので、思い切って天来先生に連れられて帰国することになった。この一ヶ月ほど前に、各地で風水害の被害があり、中央線を回ることにした。青山の家から新宿駅発で松本に一泊、篠ノ井乗り換え御代田駅に下車、昼食後待合時間中に、近古史談の一節を、割り箸で指しながら読まされ講義を受けた。馬車で40分で望月に着き、片倉の家には夕方に着いた。父母はとても驚いたが、よく労ってくれた。このときの帰国にあたり、天来先生に大変親切にしていただいたことが今も日記に残り、読むたびに感激を新たにする。

病気はすぐに良くなったが、大事を取って11月初めに東京へ帰ることになった。もう霜月ともなれば、夏のカンカン帽子などかぶっている者は他になく、ほんとに恥ずかしかった。上京後は、芝の田中家と青山のお宅に行ったり来たりしていた。

翌44年秋の初めに、天来先生は鎌倉扇ケ谷297番地に転居された。荷造りや運送、鎌倉での荷物の整理にと、忙しい日を送った。先生は東京中央幼年学校勤務のため、毎日東京へ通われたので、私は書生として鎌倉にいることになった。

鎌倉の家は、北鎌倉から10丁くらいの距離で、渡辺金太郎さんのもと養蚕室であったから、かやぶき屋根で12畳間が四つ並び、奥に8畳間の茶の間とで5部屋あり、内と表とに5尺幅の長い縁側がつき、家は地上4尺近い高さで、大谷石を4段積み上げて入口が造られていた。東京の家から越してきたので、その広大さにびっくりした。庭には植木がたくさんあり、東側の小山は屋根に続き、巌が岨々として聳え、古松は枝長く、その下には竹林が青く繁茂し、周囲近隣も遠く幽閑静寂そのものだった。

先生が夜遅く帰られるときは、駅まで出迎えに行くのだが、暗夜無灯で既に人影もなく、自分の足音に驚き恐れたこと、犬に吠えられて泣き出したくなったことも再三ではなかった。朝は早くから掃除で、氷の張ったバケツの水で、広い縁側をゴシゴシ拭く雑巾がけはほんとに辛かった。夕方のランプ掃除も一仕事だった。昼間は法帖の仕立て方を教えられて経師屋さんをやり、夜は習字を稽古したのが、書道研究の端緒となった。翌年元旦に先生のご指導で、「龍池望五雲」という書初めを書いた。この後、雅号が欲しくなり、先生にお願いして、故郷の鹿曲川の名にちなみ、鹿川と号をつけていただいた。この年の五月には大暴風雨があり、家も飛ぶかと思われるほどで、夜中に家内じゅうで裏山の窟に避難した。

続いて7月30日に明治天皇が崩御され、国民等しく暗雲に閉ざされた。明治時代の終止符であった。大正天皇のご即位と同時に大正と改元され、11月3日に明治天皇のご大葬が行われた。鎌倉から上京し、代々木の原近くまで同じ心を持つ人々の波に揉まれて進み、ご葬儀を遥拝した。

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