比田井天来

天来書院 › 比田井天来 › 知られざる比田井天来 › 第1回 上京して天来の書生となる / 田中鹿川

第1回 上京して天来の書生となる / 田中鹿川

門人の証言

第1回から第5回までは、田中雄太郎さんの自伝をご紹介します。雄太郎さんは、もと比田井雄太郎、明治42年に15歳で上京してから、昭和14年天来没年まで、書生として天来を助けました。鹿川と号し(天来命名)、小琴の実家である田中家を継いだ方です。自伝はご子息の田中浩さんがまとめられたもので、今では知ることのできない、当時の様子を髣髴とさせる名文です。

その日、母は寒い三月の朝まだき、暗いうちに起きて用意をしてくれた。早朝の三時頃、父に送られて、4里近い小諸駅まで、弁当だけ腰につけて草履履きで歩き、駅に着く頃、やっと夜が明けた。草履を捨てて、山桐の重い駒下駄に履き替えた。

駅で父に別れ、汽車は7時何分かに発車した。父は駅の棚外から手を振って見送ってくれた。東京は遠方ゆえ、この後いつ会えるかと思うと、涙がほほを流れ た。車窓の眺めは物珍しく、何もかも目を見張るばかりであった。朝から雲が厚かったが、山々の頂上にはまだ雪が白く残っているのが眺められた。碓氷峠を過 ぎるころから小雨が降りだした。

午後1時過ぎに上野駅に着いた。広大な長いプラットフォームに驚きながら、改札口にたどり着き、駅員に天来先生の名刺を見せ、人力車を呼んでもらった。名刺 には「この者、当宅まで送られたし。運賃は着支払う」というようなことが書いてあった。雨はなおやまず、車夫は今まで人力車に乗ったことのない私を乗せて 走った。どこまで行っても家ばかり、人ばかり、車上から初めて市内電車を見た。市中の騒音に驚きながら、雨中でもにぎやかな牛込神楽坂を上がって、三時頃やっと先生のお宅に着いた。車賃は1円50銭くらいだったかと思うが、奥様が払ってくださった。

先生のお宅は二階建で、綺麗な門構えの広い家で、庭の向こうに板塀があった。玄関に奥様が出迎えてくだされ、優しい感じの方で嬉しかった。お年は23〜 24歳で丸髷姿の福々しい美人で、ニコニコしたお顔が今もなお目に浮かんでくる。茶の間に通されてお茶とお菓子を出された。何と挨拶したか、母に教えられ た言葉も忘れた。そのときの私の姿は、木綿絣の綿入に、同じ絣の羽織を着て三尺帯を締め、30〜40銭で買った鳥打帽子を被った、田舎者の標本だったと思 う。ゆり子さんが6歳、千鶴子さんが3歳で、厚さんが2月に生まれたばかりの赤ちゃんだった。奥様の後ろについて、オカッパ頭のお二人が可愛らしいお顔で ニコニコお辞儀をされた。ほんとに可愛いお子様だった。

この家はまだ電気がなくて、ランプが点いていた。戸外の雨はなお強く降っていた。今までよその家に泊まったことが少ないので、寂しさを強く感じた。

天来先生は夜になってお帰りになった。初対面にどんな挨拶をしたか、まったく記憶がない。デップリ肥った、背の高い大きな体格の方で、立派な品位のある 先生は、私にも優しくお話をしてくださった。先生はこのとき39歳で、陸軍中央幼年学校の教官であった。奥様から先生を「旦那さまと呼べ」と教えられ、先 生から「奥様」と呼ぶように教えられた。先生は幼名を常太郎といわれたので、田舎では「常さん」「常さん」と皆に呼ばれているが、今日からは私の旦那さま である。女中はおすがさんといって、越後生まれで姓は稲田、長年住み込んでいられる。美人で優しい人だった。その日の夕食のご馳走は何だったか記憶がない。

第1回 上京して天来の書生となる / 田中鹿川

この記事より3年ほど後の比田井家。
後列右から天来、小琴、抱かれているのが次男漸(南谷)、小琴の祖父
前列右から次女千鶴子、長男厚、長女ゆり子、そして田中雄太郎氏

ページのトップへ戻る