w

文/写真 松倉大輔

第十回 『李白とゆく』 (最終回)
白帝城 〔重慶市奉節県〕〕

 中国李白研究会(本部:安徽省馬鞍山)や各地の李白学会によると、李白生誕の地は“吉爾吉斯斯坦北部托克馬克附近(キルギス共和国北部のトクマク附近)”としている。ここが近年の通説地である。他説の綿州昌隆県(現四川省江油)とは李白5歳のころに移り住んだ土地とのこと。そこには大規模な李白紀念館がある。また、山東出生説もあるようだ。
諸国周遊の旅に出たのは唐開元十三年(725年)、李白25歳のとき。


中央:鳳凰碑/左右:巫山白帝城対聯碑 〔白帝城〕
    10代でも幾首かの詩を作っているようだが、旅のはじめは「峨眉山月歌(がびさんげつのうた)」。渝州(現重慶市)を通り、長江を下る場面からスタートする。
この頃の最も有名な詩は「早発白帝城(つとにはくていじょうをはっす)」※一説には晩年の作とも。ちなみに白帝城から江陵までの距離は600kmもあり1日で辿り着くことは不可能。これは三峡の流れが急なことを表現している。

長江三峡(巫峡)
    この「早発白帝城」碑は白帝城内に幾碑も置かれている。もっとも目立つ場所に2碑並んでいるのが周恩来と毛沢東筆のもの。(残念ながら画像なし)
白帝城東西碑林内で最高芸術碑とされているのが「鳳凰碑」と「竹葉碑」。その巾96cm、高さ175cmの鳳凰碑の両脇には、この地が天然の要塞であると諸葛亮八陣図にかけている対聯碑が掲げられている。


ダムの底に沈む街 〔重慶市豊都県〕
    この辺りはご存知のように、三峡ダムの完成が近づくにつれ水位が上昇する。多くの街や村が水没する中、助けられた遺蹟もある。黄庭堅や王守仁、岳飛の石碑や多くの木刻碑を有する「張飛廟」は移築され、今では何百年も前からそこにあったかの様に生まれ変わっている。
さて、李白はというと荊州から洞庭湖、金陵(現南京)、揚州、会稽(現紹興)と職を求めながら遊ぶ。未だ20代。



南京長江大橋(左が上流) 〔江蘇省南京市〕
    金陵では「金陵望漢江(きんりょうにてかんこうをのぞむ)」を作る。はるか上流の漢江を眺め、六朝期の興亡を踏まえた上で安穏な世の中を褒め称えている詩である。
また、明中山王徐達の花園であったあたり(現白鷲洲公園)から1924年、「登金陵鳳凰台(きんりょうのほうおうたいにのぼる)」詩碑が発見されている。



黄鶴楼 〔湖北省武漢市〕
    揚州・会稽と廻ってみたが、仕官の口は見つからず。会稽にて『西施(せいし)』を詠んだのち、長江を遡り安陸(湖北省)へと向かう。
20代の詩では歴史や人物についてや、名勝を歴遊した際の感慨を詠んでいる作が多いのに対し、30代からは「うつ病詩」とも受け取れるような心中の苦悩の詩が増えてくる。その後は人物や酒、自然をテーマにした「游仙詩」が多くなり、晩年に近づくと世の中の乱れや自らの境遇を嘆くもの、世話になった人物への贈詩などが覗える。
安陸滞在時の代表詩『黄鶴楼送孟浩然之広陵(こうかくろうにてもうこうねんのこうりょうにゆくをおくる)』は、武漢にて敬愛する湖北襄陽の詩人孟浩然を黄鶴楼から見送ったときのものとされる。このとき李白28歳。現在の楼は1986年に再建されたもの。


太白楼 〔山東省済寧市〕
    30歳になった李白は地方での求職活動では埒が明かないことに気付き、長安入りを決意する(ときの皇帝は玄宗帝)。が、仕官に至らず。数年後には安陸にて居を構えるが(許氏と結婚)、留まる気配はなかった。洛陽嵩山(現河南省)や太原(現山西省)に遊び、詩を作りつづける。
 その後、任城(現山東省済寧)へ移り住み、酒を飲み周辺の山々へ出掛ける日々を送る。当時よく酒を嗜んだ場所が賀蘭氏経営の酒楼。ここは李白が入り浸ることにより次第に有名になり、「太白酒楼」と改名。現在は再建され「太白楼」として残されている(明代に場所が移動している)。数年間の任城滞在中にも多くの翰墨を残している。
 蘭陵(現山東省棗庄)の美酒「欝金香(うつきんこう)」を題材にした詩『客中行(きゃくちゅうこう)』はこの頃の作であろう。


三公画像石/壮観断方碑 〔山東省済寧市〕
  太白楼内には李白に関する文物が多く展示されており、左の「三公画像石」は唐代三大詩人の賀知章(左)、李白(中央)、杜甫(右奥)が描かれている。落款から明万暦年間の李漢章の作とわかる。賀知章と李白は同時期に任城に滞在していることから交友があったという。
 右上の「観」字断碑に注目。この方碑は元代に発見され、その後幾度も紛失や盗難に遭ったという。元々は「壮観」2字の刻石であったが、清代に公の場に姿を現したときには既に破損していた。大々的に李白の筆跡とされているが、実のところ定かではない。

『ちょっと休憩』

李白像です。旅先でみつけてみてくださいね。


中国翰園碑林 〔河南省開封市〕
  30代後半になると再び仕官の口を求め南陵・安陸に暮らす。この頃には妻許氏と死別し、劉氏と再婚している。子供2人は最初の妻との間の子だ。その後、幾度か内縁の妻をもったようである。
 数年間の求職活動の末、ようやく朝廷に仕えることとなる。が、毎日が宮中での勅に沿っての詩作り。放浪癖のある李白にとって、さぞかし退屈であったに違いない。同僚や高官ともうまくいかず、僅か2年で宮中を追放されることになる。一説には「酒」が原因であったとも。
 長安をあとにした李白は東の洛陽へ入る。この地で杜甫と出会う。杜甫も官職にはつかず歴遊していたことから、ふたりはすぐに意気投合したことだろう。杜甫は李白よりもひと回り若い。
 彼らは一緒に開封へと向かう。長安からの移動時は黄河沿いに東へ東へという旅だ。   


龍山題名唐宋摩崖石刻 〔浙江省紹興市〕
  開封では遅咲き詩人で知られる高適(こうせき)と合流し、3人で酒を酌み交わした。高適は李白と同年代。誰がリーダー的存在であったのか興味のあるところ。
 開封府の北部にある「翰園碑林」は「西安碑林」に継ぐ規模で、展示数は3700に上る。多くは翻刻碑であるが、有名どころを時代順に一同に見れる場所はここだけである。
 李白は2人と別れ、再び旅游詩人となる。
 「臥薪嘗胆」の主人公「越王勾践」を偲んだ詩として知られる『越中覧古(えっちゅうらんこ)』を詠んだのはこの頃(李白48歳)。場所は会稽(現紹興)。画像は「越王台」の越国遺蹟山中の摩崖石刻。まさに李白が訪れた時代のものだ。画像内のものは李白の死後20数年後(789年)の石刻。


独楽寺扁額 〔天津市薊県〕
  その後、蘇州から金陵に移り、邯鄲・幽州(北京)・薊州(天津)など数年間各地を巡る。
 李白の作とされる詩歌は990首を超えるが、現存する筆跡は数少ない。各地の李白故里には“誰々のお墨付き”とされる多くの李白手遺が存在するが、その殆どは疑わしきものである。
 唯一、文化奇人とも呼ばれる張伯駒(1898-1982)の収蔵品であった李白の草書『上陽台帖』(毛沢東を経由して現在は故宮博物院蔵)が絶対真筆とされている。
 数年前の新聞では、前述の済寧太白楼『観』字碑をとりあげて、「様々な角度から再検証の必要がある」と報じられていた。


采石磯からみた長江 〔安徽省馬鞍山市〕
  李白50歳頃に訪れた薊州(天津市薊県)古刹の独楽寺にも李白の筆跡が残されている。そのひとつが画像内の『独楽寺』扁額。
 中国収蔵家協会会長であり、国家文物鑑定委員会の副主任を務める文物鑑定の第一人者「史樹青(1922-)」もこの独楽寺題字が李白の筆跡であるとしている。しかしながら反対論者がいることも確かなようだ。
 李白はその後、現在の江蘇省および安徽省、江西省内を点々とする(金陵~宣城~秋浦~尋陽~南昌)。尋陽では名峰『廬山』に関する詩を幾首も残している。
  「安史の乱」が勃発すると、李白の人生も大きく狂わされた。≪仕官→投獄→流刑→恩赦≫これが約3年間の大まかな運命である。一時は死刑宣告まで受けている。


太白碑林 右:魯迅筆 〔安徽省当塗県〕
  晩年の李白は当塗県(安徽省)の長官をしていた李陽冰のもとで暮らす。
 李白が良く訪れた地として知られる安徽省馬鞍山長江東岸の名勝「采石磯」。ここには唐元和年間創建の「太白楼(源名:謫仙楼):①画像」や「李白衣冠塚/青山李白墓:③画像」がある。また、宋代の「蛾眉亭詩碑」を筆頭に、元碑3、明碑1の「蛾眉亭5碑:②画像」は1987年に李白紀念館(太白楼)内に移されている。現在の蛾眉亭内の5碑は翻刻碑。
 当塗県の「李白墓園」には「太白碑林」があり、毛沢東、郭沫若、魯迅、于右任、沈尹默、林散之や沙孟海といった早々たる人物たちによる李白詩碑が100首以上置かれている。


李白墓〔安徽省当塗県〕
  玄宗帝の死後半年で李白没す(762年62歳)。李白の死には諸説あり、病死とも酒が原因の事故死とも。翌年には李白の人生を多いに狂わせた安史の乱が終結している。
 墓前には高さ142・の『唐名賢李太白之墓』と刻まれた花紋碑が嵌められている。清代のものだが記年が刻まれていない。書体は杜甫の楷書。右下の画像は創建当初に使用されていたレンガ(唐代)。
 最後に、中ほどにある『ちょっと休憩』李白像内の羽ばたいている李白像をご覧いただきたい。この土台部分には最晩年の作とされる『臨路歌(りんろのうた)』詩碑が嵌めこまれている。
 この大鵬ならぬ李白の寂しそうな眼差しは、すぐ隣を流れる長江を向いている。遠い故郷へ舞い戻りたいと言わんばかりに…。

 

今回でこの連載『旅で出会った文物たち』は終了となります。

 

あとがき:

駄文にも関わらずお読みくださった方々、感謝感激です!
このような執筆の機会を与えてくださった天来書院さま、ありがとうございました。

中国の田舎でとぼけた顔をしてバスに乗っている日本人が居たら私かもしれません。どうぞお気軽に声をおかけ下さい。
では、再見!