第15回 小野鵞堂

別府史風
連載の第15回目は今から100年ほど前、その書風が一世を風靡した「鵞堂流」の創始者、小野鵞堂を採り上げます。

小野鵞堂は名をカン之助、字を間金、号は初め遂之、のち鵞堂。堂号には斯華書屋主人、斯華廻舎、二柳居などがあります。文久2年(1862)2月11日、静岡県藤枝の田中藩に仕える本多家で武術師範をしていた小野清右衛門の長男として生まれました。その後、藩が国替えになり、千葉県白濱で、幼年期を過ごしましたが、父と死別したことから12歳で単身上京し、成瀬大域の塾で漢籍の教えを受けます。書は専ら独学で古法帖や古筆を学び、明治23年には「古今集序」を出版するとともに、時の皇后(昭憲皇太后)に「明倫歌集」を歌留多に書いて献上、そのご嘉納を得て一躍書名を挙げます。そして翌24年、華族女学校(女子学習院)に奉職、終身に及ぶまで約30年間、書の教授にあたりました。また明治37年には、書道研究「斯華会」を組織して書道興隆に努め、日本全国に『鵞堂流』という名を知らしめました。鵞堂の出版した手本類は、なんと95種140冊に上り、現在でも古書店の店頭によく並んでいます。その門からは子息の小鵞、成鵞をはじめ、昭和期に仮名の世界で活躍した中村春堂、神郡晩秋、高塚竹堂などが出ています。大正13年(1922)、60歳没。

画像Ⅰは「丁未春日詠桜」と題する作品で、縦136㎝、横50㎝の紙に書かれたマクリ作品(書いたままで表装していないもの)です。「実用即美術」を理想として生まれた『鵞堂流』の漢字・仮名交じり文(調和体)。丁未は明治40年、「斯華会」を興して3年後、鵞堂45歳の真にこれからという時の作品です。

画像Ⅱも「丁未孟春書」。画像Ⅰと同じ年に書かれた七言絶句の小品マクリ(縦28.5㎝、横20.5㎝)で、絖本に書かれています。鵞堂は仮名書きの書家と呼ばれるのを嫌い、漢字の研究も怠らなかったと言われています。実に癖のない、親しみやすい漢字作品です。

画像Ⅲは「癸丑夏日」とあることから、蘭亭会が催された大正2年、鵞堂51歳。明治天皇の御製を半折に書いた軸装作品です。同時代の阪正臣や大口周魚と同じく鵞堂も御製をかなり遺しています。画像Ⅰと比べるとやや気持ちを押さえた流麗な作品といえるでしょう。

市場では鵞堂の書いたものは、たまに見掛ける程度で、鳴鶴、一六などに比べるとその数はずっと少なく、人気の方も昔ほどありません。画像で見ていただくように個性的で、仮名としての品格がいま一つ伝わってこないところがその要因なのかもしれません。

雪下庵主
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画像Ⅰ
画像Ⅱ
画像Ⅲ
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