第13回 川谷尚亭

別府史風
連載の第13回目は今年が生誕120年にあたる川谷尚亭を採り上げます。
川谷尚亭は明治19年3月1日、高知県安芸郡川北村横山の酒造家、川谷市太郎の三男として生まれました。名は賢三郎、字を大道といい、号は尚亭のほかに横山逸民・雲弟など用いています。次男で一回り上の兄が日下部鳴鶴に師事した川谷横雲です。

書は初め、小野鵞堂の主宰する「斯華会」に入って鵞堂流を学びますが、これに満足せず明治43年、日下部鳴鶴の高弟、近藤雪竹に入門し、書の道に専心しました。当時の競書雑誌「書之友」には、鳴鶴風の字を書いて盛んに出品していた様子が残されています。大正5年、文部省習字科検定試験(文検)に合格、翌年、私立高知高坂高等女学校に奉職しましたが、大正7年、意を決して上京し、三菱造船株式会社に入社。勤務の傍ら、日下部鳴鶴はじめ、丹羽海鶴、比田井天来らと交わり、多くのものを彼らから学びました。特に天来との交流は深く親密であったと伝えられています。また鈴木翠軒、田代秋鶴、吉田苞竹、松本芳翠、高塚竹堂等と親交を深めたのもこの頃です。

しかし大正12年、長男の不慮の事故死や関東大震災を機に、三菱造船を退社、大阪に居を移し、自らの手で甲子書道会を興します。そして月刊「書之研究」を発行して書の発展と後進の育成に努め、寝る間も厭わず書の研究に邁進しました。当時の尚亭の書に対する熱き思いは彼の著した「書道講習録」、「楷書階梯」、「書道史大観」の中に満ち溢れています。

こうして多忙かつ精力的な日々を過ごしていましたが、これが災いしてか、ついに病魔に冒され、一年半の闘病の甲斐もなく昭和8年1月、47歳の若さでこの世を去りました。その誠実で叙情的な書は格調高く、100年以上経った現在でも新鮮で、観るものの心に深く染み入り、今なお多くのファンを獲得しています。

市場では、早世のためか出回る作品の数はごく少なく、物故書家の中では最高位の値で取引されています。そのため書が専門でない書画屋さんでも「川谷尚亭」という名前を知っている人は多いようです。尚亭の贋作については今まで数点見かけたことはありますが、どれも取るに足るものではなく、鳴鶴や一六に比べればごくごく僅かです。


画像Ⅰは大正9年(庚申)の春、尚亭35歳、上京して二年後、まさにこれからという時に書かれた半折作品です。この作品は、昭和32年に南不乗「手島右卿の末弟 (1914-1991)」が編集した『川谷尚亭作品集』に掲載されていますが、その後出た作品集には収録されていません。半折に四字書くことはよくありますが、三字は章法に無理があるため普通あまり書きません。画像でご覧になると一字一字が大きく感じられませんか。しかし実際は決して大きくありません。上下に余白を広く取ったこと、「登」の口、「龍」のコを大きく書いたこと、「門」の下を外に開いたこと、こんなことでそう見えるのかもしれません。若書とはいえ、その線はよく沈着して深く実に魅力的です。あの代表作「瀟灑風流」と並び称される傑作ではないでしょうか。


画像Ⅱの扁額は昭和2年(丁卯)8月、42歳。北海道に遊歴した折り、当時北海道で名声のあった書家「大塚鶴洞(1886-1968)」に贈ったもの。実は、この作品との出会いが衝撃的なものでした。今から14年程前、小田原にある骨董店を訪ねたとき、薄暗い部屋の片隅に、ボロボロに破れた一つの扁額が掛かっていました。それを見た瞬間の胸の鼓動が今でも忘れることができません。それはまさしく長年捜し求めていた『尚亭の書』。後でわかったことですが、この扁額は大塚鶴洞から弟子の加納守拙(1901-1991)に渡り、守拙の死後、行方不明になっていたものでした。今思うと、もしあの時出会っていなければ、この書は永遠にこの世から消えていたでしょう。なぜならその店の主人は「川谷尚亭」など知る由もなく、ただ壁の破れを隠すために掛けてあったボロ隠しに過ぎなかったからです。この運命的な出会いがあった後、破れた箇所も奇跡的にうまく補修でき、「雪深處」が「雪の下」の所蔵品になった次第です。

雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

画像Ⅰ

画像Ⅱ

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