第9回 近藤雪竹

別府史風
連載の第9回目も同じく鶴門(日下部鳴鶴の門下)の近藤雪竹を採り上げます。
近藤雪竹も先に採り上げた渡邊沙鴎、丹羽海鶴、山本竟山と同じ年の文久3年(1863年)に、江戸の山形藩水野侯邸内で生まれました。雪竹が6月、竟山9月、海鶴11月、沙鴎12月、4人の内の最年長にあたります。名を富壽、字は考卿といい、号を雪竹、別号に聴泉楼主人などがあります。

幼少の頃から学問が好きで、紀伊藩の藩儒、井上韋斎という人に就いて漢学を学び、明治12年、雪竹16歳の時に、日下部鳴鶴に入門しています。鳴鶴が楊守敬と出会ったのが明治13年ということを考えれば、鳴鶴が楊守敬から得たものすべてが直に年若い雪竹にも伝わったにちがいありません。もちろんこの時身近にいた巌谷一六からも多くを学び、「・・・前途の進境ほとんど測るべからず」と賞賛されています。こうして漢魏六朝を中心に鐘鼎文や唐宋明清にいたるまで、歴代の名家の碑帖を学び極めました。

雪竹は楷行草篆隷の各体に通じていましたが、その中でも隷書を最も得意とし、師鳴鶴から「・・・後生真に畏るべし」と言われたほどの書才の持ち主でした。そして鶴門の中あって、師に忠実に従い、執筆法も鳴鶴直伝の廻腕法を用いました。当時盛んに行われた席上揮毫の際、羊毛最長鋒を使って見事に揮毫する様子に、その場の人々は驚嘆したと言われています。

大正期になると、書道が一般の人たちにも広がり、多くの書道団体が結成され、展覧会も盛んになり、雪竹も幹事、審査員となって活躍しました。談書会、書道奨励協会、日本書道会、文墨協会、健筆会、法書会、平和博覧会、日本美術協会、日本書道作振会、戊辰書道会など挙げれば限がありません。このように人気を博した雪竹には当時3,000人近くの門人がいたそうです。その中で頭角を現し、その後書道界で活躍した人物に、川谷尚亭、佐分移山、名越霞渓、益田石華、松本芳翠、藤本竹香、辻本史邑、上田桑鳩、田中真洲などがいます。

昭和3年、10月14日病没。享年65歳。墓所は東京青山の龍巖寺にあります。
近藤雪竹の遺墨帖は没後の昭和4年に刊行された後、昭和51年の没後50年にも刊行され、同時に「雪竹先生書碑」が神奈川県平塚市にある前鳥(さきとり)神社の境内に建てられました。この建碑は門下田中真洲の尽力によるもので、その碑面には雪竹の得意とした隷書体の文字が刻されています。
尚、この碑の画像がギャラリー雪の下の『全国名碑巡り』の中に掲載してありますのでご参照ください。

画像Ⅰは縦133cm横50㎝の聯落の紙に、唐の詩人、李洞の七言絶句を書いたものです。行書と草書の緩急のバランス・文字の大小・線の太細、それらが実に見事に調和して、首尾一貫、気持ちの緩みがありません。

さて画像Ⅱをご覧ください。こちらは縦150cm横41㎝の紙に書かれています。作品には「大正乙丑春吉」とあり、大正14年の春、雪竹61歳、晩年の充実した時期のものと思われます。通常この大きさの紙に「八字句」を二行で書くのは、章法の点で難しいのですが、そこを無理なく纏めているところは流石と言わざるをえません。書かれた書線から判断すると多分、老文元・李鼎和・邵芝巖といった唐筆が使われたと思われます。

遺墨帖を見ると画像Ⅰに類する作品が多くありますが、さらに篆書や隷書を加えた破体書の作品に惹きつけられます。これらは雪竹独自の世界を形成し、他のものの追従を許さない実に魅力ある作品です。残念ながらこの種の作品を市場で見かけることはほとんどありませんが、目の前でその肉筆を見て見たいものです。また目にする作品の落款はほんんど「雪竹富壽」と号と名前で書かれていて、特に興に乗って書いたものは、この「壽」が大きく堂々として、筆が気持ちよくクルクル回転しています。今までの経験から落款が「雪竹」とだけ書かれた作品に怪しいものがありますので、ご注意ください。

雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

画像I
画像II
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