第8回 山本竟山

別府史風
連載の第8回目は同じく鶴門(日下部鳴鶴の門下)である山本竟山を採り上げます。
山本竟山も渡邊沙鴎、丹羽海鶴と同じく文久3年(1863年)の9月28日に、岐阜県に生まれました。名は由定といい、通称は卯兵衛、号を聾鳳、竟山と称しました。初め書を神谷簡斎(岐阜県の郡長をした人)から教えを受けましたが、その後日下部鳴鶴について書法を学びました。何歳から師事したかは定かでありませんが、40歳を過ぎた明治35年頃から度々中国へ渡っています。師、鳴鶴の勧めによるものと思われますが、その目的が金石学、古碑法帖の研究にあったことは間違いありません。明治13年に来日し、当時の書道界に多大な影響を与えた楊守敬や鳴鶴と交流があった呉昌碩に直接会い教えを受けました。鳴鶴、天来と伝わった「餘清斎帖」や潘存が臨書した「鄭文公下碑」などを日本に持ち帰ったのは、他ならぬこの山本竟山です。その後、居を京都に置いたことから、その活動は京都・大阪を中心に広がり、門下も多彩な方面の人たちが集まりました。一例として佐々木惣一(憲法学者・文化勲章受賞)、湯川秀樹(ノーベル物理学賞受賞)等が挙げられます。竟山の学書の基本は飽くまでも古典の臨書にあり、独自の臨書感によって他の鶴門の人たちとは異なる個性的な書を遺しています。特にその楷書にそれを見ることができます。鶴門のほとんどが関東で活躍したのに対して、関西の書道界に大きな功績を残した竟山でしたが、昭和9年1月24日、急性肺炎で70歳の生涯を閉じました。著書に『竟山学古』『臨蘭亭二種』などがあります。

画像Ⅰは縦34cm横127㎝の紙に蘇軾の前赤壁賦の一節を書いた扁額です。その誠実な運筆と力強く重厚な線質はまさに竟山の楷書の真髄を伝えています。こんな扁額が玄関や室内に掛けてあると、毎日落ち着いた気分で生活できるのではないでしょうか。

画像Ⅱは大きさ縦107cm横23㎝のマクリ状態の作品です。この作品も得意な楷書で書かれていますが、画像Ⅰと比べると骨格はしっかりしているものの、線の深みがやや浅く感じられることから、若書だと思われます。

竟山が主に京都・大阪を中心に活動したことから、作品が市場に出てくるのは圧倒的に関西地方からです。そのため関東地方での知名度はあまり高くありません。またその作品の書体は楷書が一番多く、隷書・篆書も見かけますが、行書や草書の作品を見たことがありません。
今でも京都や大阪には竟山の書いた看板が遺されていますので、その方面へ行った折には是非見つけてください。

雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

画像I
画像II
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