第7回 渡邊沙鴎

別府史風
連載の第7回目は再び漢字界に戻り、鶴門(日下部鳴鶴の門下)の四天王の二人目、渡邊沙鴎を採り上げます。
渡邊沙鴎は丹羽海鶴と同じ文久3年(1863年)の12月21日に、父金兵衛、母精子の長男として名古屋の地に生まれました。幼名を新太郎といいましたが、20歳になって沙鴎と改名しているところから、本名を雅号として使っていたようです。別号に飛清閣主、清華道人、東海居士、東海道人などがあります。初め書を水谷魯堂について学びますが11歳になって、名古屋の書の名家、恒川宕石の門に入ります。既に書才のあった沙鴎は、その数年後に早くも助教授を務めるようになり、師の宕石から恒川家の養子になるよう切望されますが、自分は長男であるという理由でその話を断ります。断った背景に渡邊家の諸事情があったようですが、きっと沙鴎の心中には、名古屋という小さな世界で一生を終わりたくないという信念があったにちがいありません。そして26歳で結婚、一児を儲けますが、健康を害し半年間ほど静養した記録が残されています。明治23年、28歳の時に意を決して上京した沙鴎は、日本郵船東京本社に勤務しながら、日下部鳴鶴から本格的に教えを受けることになります。この時すでに近藤雪竹、丹羽海鶴は鳴鶴の内弟子として修行していました。入門後まもなく鳴鶴の薦めで巌谷一六や中林梧竹と交わり、益を受けるようになりますが、特に梧竹とはお互い共感するところがあったのか、親交を深めていきます。沙鴎の梧竹に対する思いが、「筆之友」に掲載された次の一文に語られています。「・・私は梧竹先生の説に従い、其の指導を仰ぎつつ文徴明の何の帖を書いて来いと云われればそれを書き董其昌の何の帖と云われればそれを書き、米元章、顔真卿、王羲之、六朝と順次に研究して、それを梧竹先生に示して直して貰ったのであった。・・・」。ここまで心酔すれば、世に言われているように師、鳴鶴との間に軋轢があったのも当然だったといえるでしょう。ではなぜ沙鴎がこれほどまでに梧竹に傾倒したのか。それは沙鴎自身の中に鳴鶴よりも梧竹の書の質と自由な芸術感覚に対する憧れがあったからではないでしょうか。
こうして漢魏六朝・唐・元・明に至る中国の古典の研究を続けながら、当時の書道人と団結し六書協会や日本書道会を起し、展覧会を開催するなど意欲的な活動もしています。特に文展(現日展)に書をいれることにはかなり積極的に行動したようです。ここで鶴門の後輩である比田井天来との関係をみて見ることにします。沙鴎は天来より約8才年上ですが、天来の入門当初から交友があったことが、書学院に遺された沙鴎から天来に宛てた書簡で明らかにされています。その書簡の数が60通以上あることや天来の結婚の仲人をしていることからもその親密さが窺えます。鶴門の中にあって時代の先をみる目をもちあわせた二人が、年齢の差を越え、お互いを認め合っていたのでしょう。天来の残した「此の人には當代及ぶ可き人はいない。自分等の出るべき幕ではない。」「天下に実ありて名なき者、渡邊沙鴎、大橋不染(沙鴎の弟子)、名ありて実なき者、豈あげて数うべけんや。」という言葉がそれを物語っています。ではその他の人たちにとってはどうだったのでしょう。川谷尚亭の「書の研究」や上田桑鳩らの「書道芸術」誌上に、ほとんど毎号沙鴎の作品が掲載されています。このことからも、いかに沙鴎が大きい存在であったかが推測できます。
大正5年10月15日、円熟期を向かえ、これからという時に、肺尖カタルで死去、54歳という若さでした。墓所は東京都豊島区にある雑司が谷霊園にあり、墓石には「渡邊沙鴎奥津城」(丹羽海鶴書)が刻まれています。

画像Ⅰをご覧ください。この書は半折に王羲之の十七帖『成都城池帖』を四行に臨書したものです。半折に三行で書くことはよくありますが、四行になると普通は萎縮してしまい動きが小さくなってしまいます。しかしこの作品にはそんなところは微塵もなく、骨格の確かさと変化に富んだ書線は実に見事です。又この軸の巻き止めに、明治40年、東京市銀座、山野政太郎氏(楽器店)、米國帰朝記念寄贈と書かれています。山野政太郎は、沙鴎が勤務していた日本郵船で店童として働いていた人物で、後の山野楽器店初代社長のことです。この作品の出所は定かでありませんが、軸の様子がかなり焼けていることから、永い年月掛けられたままの状態であったと思われます。

画像Ⅱは未表装の作品です。骨董界ではこのようなものをマクリ(メクリ)と呼んでいます。画像Ⅰの臨書作品に比べるとこの作品の方が沙鴎の書才を十分発揮しているのではないでしょうか。その深みのある冴えた線は情趣に溢れ、まるで今書かれたような新鮮さがあり、80年以上経っていても少しも古臭さを感じさせません。どことなく梧竹の香りが漂っていませんか。

沙鴎が鳴鶴、一六、梧竹などと比べると早世した為か、遺された作品の数はあまり多くありません。従って市場では一部で高く評価されていますが、書画を取り扱う人でも沙鴎を知る人はあまりいないのが現状です。

雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

画像I
画像II
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