第4回 丹羽海鶴

別府史風


 連載の第4回目は鶴門(日下部鳴鶴の門下)の四天王の一人、丹羽海鶴を採り上げます。
 丹羽海鶴は文久3年(1863年)11月25日、岐阜県恵那郡福岡村の素封家の家に生まれました。名ははじめ金吾、のち正長、字を寿卿、海鶴はその号です。幼少の頃からすでに書を好み、20歳の頃には飛騨の高山小学校で教鞭を取りながら、貫名菘翁の書などもかなり勉強していたようです。明治21年8月、日下部鳴鶴が高山の地に来遊した時、その見識と廻腕法で書かれた書のすばらしさに感化され、翌22年には上京して鳴鶴の内弟子になっています。この当時の鳴鶴は既に書の世界の第一人者であり、「天下の鳴鶴」が内弟子として迎え入れたことで、いかに海鶴に書才があったかがお分かりいただけると思います。こうして約10年、鳴鶴の下で直接指導を受け、漢魏、六朝、晋唐の碑版法帖を研鑽、いわゆる『海鶴流』と呼ばれる独自の書風を生み出します。この『海鶴流』は鄭道昭の鄭文公碑を基調に欧陽詢(皇甫府君碑)やチョ遂良(孟法師碑)の書法を主に取り入れたもので、その穏健で中正な書風は教育書道の世界に迎えられ、各種の習字手本が刊行されました。今日でもこれらを初心者用の手本として使っている書道団体がいくつかあるようです。その後、学習院教官、東京高等師範学校講師、文部省教員検定委員をつとめるとともに、幾多の書道会の役員・審査員としての重責も果たしました。その間、公務の余暇をみつけては各地を遊歴したり、門下の育成に努めていましたが、昭和4年頃より健康を損ね、昭和6年7月5日、療養の甲斐なく67才で亡くなりました。その門下には田代秋鶴・鈴木翠軒・田中海庵・井上桂園などがいます。また海鶴は「容儀端正」という言葉そのままの人で、周囲の人たちもその几帳面さには驚くほどであったそうです。まさしくその書をご覧になれば「書は人なり」「心正しければ筆正し」といった言葉のもつ意味が証明されるでしょう。

 画像は大正5年(1916年)、海鶴、52才の書です。李白や杜甫などの有名な唐詩が自然な運筆で書かれ、私淑した貫名菘翁の影響が随所に感じられます。軟毛から剛毛へ移行する時期の代表作といえるでしょう。
 画像もほぼ同時期の作品と思われますが、この書を観ていると自然と身が引き締まる思いがします。海鶴の書は、人の目を引く派手さはありませんが、毎日、目にしていても決して飽きることがなく、何かを語りかけてくれます。小さい頃からこのような書を観ていると、健全な精神の人間が育つのではないでしょうか。
 田代秋鶴の書いた「丹羽海鶴先生碑」(雪の下HP全国名碑巡りに掲載)が東京の多磨霊園にあります。桜の咲く時期にでも是非お訪ねください。最後に海鶴の贋物と篆書作品はまだ出会ったことがありません。

雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

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