第二回 巌谷一六

別府史風

連載の第二回目は日下部鳴鶴と共に明治の書道界に大きな足跡を遺した巌谷一六を採り上げます。
巌谷一六は天保5年2月8日、近江水口藩の侍医巌谷玄通の子として生まれ、明治38年(1905)7月12日、71歳で没しています。墓所は京都東山霊山の正法寺にあり、生誕の地、滋賀県甲賀市水口町の大岡寺の境内には楊守敬の篆額・東宮侍講中洲三島毅の撰文・日下部鳴鶴の隷書体による「貴族院議員従三位勲二等巌谷君碑銘」が現存しています。幼名を辨治、名を修、字を誠卿、号を一六といい、古梅、迂堂、金粟道人、キュウ霞楼主人、呑沢山人などの別号も使っています。明治元年(1868),徴士議政官史官となり、のちに太政官一等大書記官、修史館監事、内閣書記官などを経て元老院議官、錦鶏間祇候、最後には勅選により貴族院議員になっています。書は初め巻菱湖の弟子中澤雪城につき、菱湖風を好んで学びましたが、明治13年(1880年)、清国から楊守敬が来朝すると日下部鳴鶴、松田雪柯と共にその教えを受けました。一六は楊守敬が持参した数多くの古碑・法帖を実見することで、大きな刺激を受け、大いに悟るところがあったようです。それ以後、一六の書は一変し、廻腕法による独自の書風が生まれました。また詩や画にも天賦の才能を発揮し、書画幅や屏風、扁額、碑文、手本類などを数多く遺しました。当時、書画を所蔵している家で、十軒に一軒には一六の作品があったと言われていたほどです。
ここに掲載の六曲屏風をご覧ください。この作品は明治29年の夏に書かれたもので、一六、62歳、その自信に満ち溢れた堂々たる運筆は真に一六の真骨頂を遺憾なく我々に伝えています。これぞ正真正銘の『一六の書』といえるでしょう。
ところで近代書家の中で抜き出て贋物が多いのがこの一六であることをご存知でしょうか。
70歳そこそこで没したにしては遺した作品はかなり多く世に出回っています。しかしその中の4割は贋物といって間違いありません。そのどれもが一六の筆意を得ていませんが、一見すると右肩下がりの一六風に似せて書いてあるため、かなり経験を積んだ古書画商でもなかなか真贋を見分けることができないようです。市場ではこうしたことが原因となって、真贋が入り混じり、一六の評価をかなり下げています。しかしこの屏風のような作品をみれば、一六がいかに実力があった書家であることがお分かり戴けると思うのですが。書を見て、どうしても真贋の判断ができない場合には次の方法で、ご判断ください。作品が軸装のものに限りますが、まず軸装の質を見てください。緞子仕立てなどの高価な表装であれば、一六の本物と思ってほぼ大丈夫です。怪しいもののほとんどが紙表装や安価な表装で仕立ててあります。一六が貴族院議員であったことを思い起こせば納得して戴けるでしょう。また一六の娘婿の辻香塢や弟子の勢多桃谷の書は、一六と見間違えるほど良く似ています。もしかしたら贋物のいくつかは彼らが書いていたのかもしれません。
滋賀県甲賀市水口町にある歴史民俗資料館内に、巌谷一六とその息子で児童文学の創設者として知られる巌谷小波(さざなみ)の記念室があります。ごく小規模なものですが、郷土の士を顕彰しようとする心意気が伝わってくる空間ですので、お近くへ行かれましたら是非立ち寄ってみてください。


雪下庵主
http://www.yukinoshita.jp

六曲一雙屏風その1
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六曲一雙屏風その2
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