【解説】ヤモリという虫

日本古典における生き物の分類

  まだ学校に上がる前の幼稚な時期に、私は進化に関するごく簡単な子供向けの本をたいへん面白く読みました。そこには太古の地球の姿があり、いろいろな種類の恐竜の繁栄があり、やがてそのトカゲに似た巨大な生物は姿を消し、鳥や獣の先祖が現れ、その中に類人猿が発生し、直立して歩行する我々人間の時代が来るのです。その本を読んで以来、単純な子供の心には時間というものはすべて進化の相に見えました。もの心ついて以来爬虫類両棲類の類いが大の苦手でした。蛇やトカゲは図鑑で見るのもいやでしたが、昭和三十年代の田舍には、もっと身近な生き物としてどこにでも蛙がいました。そのころの子供は天気さえ好ければ毎日外で遊んでいました。男の子に混じってチャンバラごっこもするお転婆で、女の子の常として口も立った私は諍いになってもたいていのことは困りませんでしたが、男の子は負けそうになると終いには私の顔に蛙を投げつけました。小さな青い蛙でしたが私には致命的ダメージになったのです。頬にペチャッと当たる冷たい感触は今も忘れられません。半泣きになって帰りました。まつわればふわふわと温かい犬や猫とは違って無表情で無気味な蛙のような生き物は、犬や猫よりはるかに恐竜側に近いと感じられて、自分が大人になるまでにはきっと絶滅しているだろうと、とんでもなく勝手な妄想をしていたものでした。

  しかし、世の中はいろいろで、目が愛くるしいとか、おとなしくて可愛いとか、柄が美しいとかで、爬虫類・両棲類に愛情を注ぐ人も居ます。気味悪げなものをペットにして世話する人は昔もいて、平安時代末期の短編集『堤中納言物語』には有名な「虫めづる姫君」の話があります。毛虫(「鳥毛虫」かはむし)をことのほか可愛がったという大納言家の姫君は、お供の童子にも「名は、例のやうなるはわびしとて、虫の名をなむつけたりける(呼名は平凡なのはつまらないといって、虫の名をお付けになった)」と言い、「けらを、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまびこ、なんどつけて、召し使ひたまふ」とあります。日本の古典的表現において、蛇や蛙も「虫」扱いであったことは「たかさご島のおもひ出」本文の釈文ページの註でも触れたとおりです。蛇が「長虫」と呼ばれたことはよく知られていますが、ここの記述を見ると、ひき(蛙)もまたごく普通に「虫」の仲間に入っています。同じように、近世になって「やせがへる負けるな一茶これにあり」を詠んだ小林一茶の俳文でも、また、言語学者の本居宣長が方言に触れた記述の中でも、蛙は「虫」と記してあったりします。今日の感覚からは抵抗を覚えますが、習慣的な表現でした。生き物の分類の仕方には場合によってさまざまがあるでしょうが、日常的には、人、獣(けだもの)、鳥、虫、魚、くらいの大まかな区別で済んでいたのかもしれません。
漢字の世界でも動物は「けもの」「とり」「さかな」「むし」の4類ですべてです。

  このたび小琴が記している「虫」ヤモリは、台湾の家屋に出没する生き物としては今日でもおなじみの生き物のようです。「(日本のヤモリは)顔のこわきものと知りたるが、南の国に住めるは愛らしき面だちなりとや。おのれはさるにてもあれ、いとおそろしう覚えてよく見ねど、人にぞきゝたる」(本文p.12)とあります。顔だちが日本のものと違って可愛いという。もともとそこに住んでいる人にはどう見えているのか分かりませんが、駐在員などで台湾に赴く日本人には、たしかに「台湾のヤモリはつぶらな瞳でかわいい」という感想を持つ人がたくさんいるようです。そもそも飼っているわけでもないのに、当り前に家の中に暮らしている動物がいるという事実が、どこか現実離れして思われるのではないかという気がしますが。さらに目を引くのは、「台南のあたりに住めるは、清らかなる声して泣くなりけり。そは人の舌打ちしてよき音たてたるやうの声なり」(本文p.12)と言う記述です。鳴く(泣く)ヤモリがいるという。ヤモリが鳴くのかと現地で腰を抜かすばかりに驚いたという話は、台湾旅行者また駐在員の書いたものによく見る話です。多くの人が体験しているということでしょう。そこで、小琴が台湾で見たとおもわれるヤモリ、また話に聞いたヤモリと思われるものについて調べてみました。


鳴くヤモリ

  ヤモリは爬虫綱有鱗目の動物でおびただしい種類が報告されています。日本産のものだけでも「日本産爬虫両生類標準和名」(2006年4月21日改訂)にあるものを挙げれば、
Gekkonidae ヤモリ科
    Gehyra フトオヤモリ属:オンナダケヤモリ
    Gekko ヤモリ属:ミナミヤモリ、ニホンヤモリ、タワヤモリ、ヤクヤモリ、
        タカラヤモリ、ニシヤモリ
    Hemidactylus ナキヤモリ属:タシロヤモリ、ホオグロヤモリ
    Hemiphyllodactylus キノボリヤモリ属:キノボリヤモリ1、キノボリヤモリ2
    Lepidodactylus オガサワラヤモリ属:オガサワラヤモリ
    Perochirus シマヤモリ属:ミナミトリシマヤモリ、ホオグロヤモリ

と、ざっと14種類もが並びます。南の島々にはいまだ分類整理の対象にさえなっていない未知の種類も多いといわれ、非常に種類の多い生き物です。このたびは、ともかく鳴くものらしい名前を持ったナキヤモリ属というグループをまず眺めてみましょう。

  ナキヤモリ属にはタシロヤモリとホオグロヤモリの2種類がいます。この2種類はどちらも台湾にも分布しています。台湾にはこれとは別の鳴くヤモリがさらにいる可能性もありますが、まずこの2種類を見てみましょう。

1 タシロヤモリ(学名:Hemidactylus bowringii)
分布:奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島に分布するとされる。
   ほか台湾、東南アジアなどに棲息。
生態:人家付近で夜間照明に集まる。昆虫を食べること以外、生態はほとんど不明とのこと。
全長:90〜120mm
他: 暗い場所で見ると明瞭な横帯が現れて、一見「虎柄」のように見える。


2 ホオグロヤモリ(学名:Hemidactylus frenatus)
分布:徳之島以南の南西諸島(尖閣列島や仲御神島など無人島を除く)と小笠原諸島、人為移入で全世界の沿岸部。南大東島、西表島。世界的な分布域は大陸の内陸部を除く全世界の熱帯・亜熱帯域に及ぶ。
生態:民家などの建造物を好み、かなりの密度で棲息。電話ボックスなどにも多い。
   人里から離れた自然林の中ではあまりみられない。
   「チッ、チッ」と鳴く。灯りに集まり虫などを食べる。
全長:90〜130mm
他 :南西諸島では最も普通にみられるヤモリ。

  面白いのは、小琴が、鳴くヤモリを台南棲息(「台南のあたりに住めるは」)と記している点です。今日の台湾でも北のヤモリは鳴かず、南のヤモリは鳴くと言われており、その境界線がどのあたりであるといった話に興じることはよくあるといいます。昭和11年当時から、この通説はほとんど変わっていないのでしょうか。

  「台湾では一年中蚊帳を釣って寝る(「たかさご島のおもひ出」昭和11年当時)という。蚊帳を釣らなければ安心して家の中に居ることもできない」(本文p.12)と小琴が述べているのには全く同感です。身の傍をペタペタとヤモリが這うかと思えば目をつむる気もしません。蚊帳越しにも天井のヤモリを眺めながら寝るのは、小琴にとっては面白怖い異国の風情であったことでしょう。