『たびかがみ』 四の巻の概要と時代(1)

  「たびかがみ」四の巻は、昭和11年8月末、埼玉県浦和(現さいたま市)に和歌の世界の知人を尋ねるところから始まり、浦和から帰ると翌日には遠く島根県隠岐に向けての紀行が始まります。一の巻もそうであったように、「たびかがみ」は一つの旅行について一冊に作っているのではなく、一冊としての程よい分量までは、近い時期の遠出を続けて綴ったもののようです。
  浦和行と出雲隠岐旅行と、「たびかがみ」四の巻にあるこの年昭和11年夏の旅の概要をまとめました。天来は65歳、小琴は52歳。前年の長男厚の急逝によって半ばは強引に書の道に引寄せられた漸(南谷)は、この隠岐行きの旅にも同行しています。24歳です。勿論のんきな旅行の御供ではなく、天来の後継者として、天来の身辺にあって研鑚の日々を続けていた時期と推察されます。

1 「たびかがみ」四の巻で訪れる地域

 昭和11年8月末(日付記録無し)
         埼玉県浦和(松居鶴子氏宅訪問・同行者記録無し)
            見沼温泉旅館
 昭和11年8月末、浦和から戻った翌日(日付記録無し)
         隠岐へ出発(天来、小琴、漸、田中雄太郎)
            松江 皆美館
            宍道湖 妹が島 松江大橋
            美保の松原 大井川
            出雲大社
            湊原
             *連載中に井原建幸氏より資料の提供を頂く。これによって、
              天来一行が湊原で滞在したという海辺の家が井原雲涯の別
              邸「廻瀾亭」であったことが判明しました。
            嫁が島
          隠岐(島前、島後) 
            関の五本松
            文覚岩
            天皇山 黒木御所
             *「黒木御所遺趾」揮毫
            別府湾
            後鳥羽上皇御陵  音なしの松
            中の島の長者 村上助九郎邸
            大山
             赤松池 さいの河原
            国賀
            船越運河
            美田村
            島後(西郷港)高梨旅館
            国分寺跡
            御行在所
            玉若酢神社
            仏島

2 「たびかがみ」四の巻の時期

  つい先頃冬季オリンピックの話題が世界を賑わせ、現在は同じイタリア、トリノでパラリンピックが開催中です。オリンピックでは奮わなかった日本チームですが、パラリンピックでは連日のようにメダル獲得が報じられ、誇らしい成果が伝えられています。さて、小琴が忙しく北海道から帰り、同じ月の末には泊りがけで浦和へ、更には出雲・隠岐へと旅の日を送ったその夏、昭和11年8月1日に第11回ベルリンオリンピックは開会したのでした。開会を宣言したのはアドルフ・ヒトラーです。後にナチス・オリンピックとも呼ばれることとなった大会です。

ベルリンオリンピックポスター

  発祥の地ギリシアのオリンピアで採火した聖火をトーチのリレーで開催地のスタジアムまで運ぶという、今日御馴染みになっている、いかにもオリンピック行事らしく見える聖火リレーが初めて取り入れられたのはこの大会です。実はこれには地中海の英国軍基地を空から偵察しようというナチス・ドイツの隠れた目的があったといわれています。いずれにせよこのオリンピックには、文化的にも独特の意欲を持っていた当時のドイツが国威をかけて力を注いだことによって、随所に斬新で劇的な演出が盛り込まれ、後の国際大会等へ多くのアイディアを提供することとなりました。
  この大会で初めて日本放送協会はラジオ実況放送で現地を伝えました。人々は茶の間にいて、はるか海の向こうの日本選手の活躍を手に汗握って応援しました。日本中を熱狂させた実況放送ですが、ベルリンに派遣されたスタッフはわずか3人、アナウンサーの山本照、河西三省、付添1名という、今日の報道体勢とは較べものにならないささやかなものでした。実況放送の歴史に残る「前畑がんばれ」はこのオリンピックにおける放送です。
  前畑秀子は水泳女子200メートル平泳に出場していました。スタートからトップを泳ぐ前畑を残り20メートルで地元のマルタ・ゲネンゲルが猛追してきたとき、アナウンサー河西三省はマイクを掴み、思わず机に飛び乗って「前畑がんばれ」を連呼しました。スタートからゴールまで3分3秒6の間に「がんばれ」を38回、「勝った」を19回叫んだといいます。このようなやり方が報道としてどうなのか、冷静に見ればむしろ批判される仕事ではないかとも思いますが、熱狂は十分伝わり、前畑選手は優勝、日本人は自国民の活躍に酔いました。放送されたのは昭和11年8月11日のことです。

表彰台で表彰を受ける前畑秀子選手
大江季雄選手、西田修平選手が持ったメダル

  このほか、棒高跳びではオリンピック史に残る長い対決の記録が残されました。競技開始が現地の午前10時。アメリカの選手アール・メドーズの優勝が決まったのは午後8時。しかし午後10時になっても2位と3位とが決まらず、結局大江季雄が4歳年長の西田修平に2位を譲って終わりました。後に、この二人は銀と銅のメダルをそれぞれ二つに割り、半分ずつをつなぎ合せて持ったことが知られ、友情のメダルと讃えられました。たまたま同国人であったこともこのようなことを可能にした理由ではありましょうが、現代にはありそうにないお話です。このオリンピックで日本は金メダル6つ、銀メダル4つ、銅メダル10個を獲得しています。
  これが事実上ナチス・オリンピックであったように、世界は大規模な争乱の時に向かって時を刻みはじめていました。この閉会式に集った世界の人々は「4年後は東京で」と約束して別れました。オリンピック開会に先立つ7月31日にベルリンで開催されたオリンピック委員会総会で、次期12回大会の東京開催が決定されていたからです。しかし、この第12回東京大会は日中戦争に阻まれて開かれることはありませんでした。
  天来・小琴はこの夏、北海道に、また出雲・隠岐にと、本拠地を長く遠く離れて過ごしましたが、自宅でも、また旅先でも、あるいはオリンピックのことが折々の話題に昇ったのではなかったでしょうか。

2006年トリノ冬季オリンピック 荒川静香選手金メダルのウィニングラン