【解説】
いにしえの鈴の音

駅鈴の音色
  隠岐の玉若酢命神社に伝わる駅鈴は律令制の頃に用いられていた一種の通行証と言えます。当時遠方に赴く普通の交通手段は馬でした。官吏が諸国に向かう時は朝廷から駅鈴と伝符とを賜り、途上は鈴を鳴らして官吏であることを触れて通りました。駅鈴は天皇自ら賜るのが原則でした。都に天皇が不在の場合には皇太子がそれを代行しました。小琴が隠岐の駅鈴に接した時にまず「かしこしや(畏れ多いことよ)」と反応しているのは、このような事情に由来すると思われます。長距離にわたるときは馬を酷使しないように国内随所に設けられていた駅(うまや)で馬を乗り継ぎました。乗ってきた馬をそこに置いて、別の元気な馬に乗り替えるのです。駅の制度は公的交通の便を目的として整備され、細かに定めがありました。延喜式によると、主要駅路は全国主要地を結ぶ七道(幾内・東海道等)があり、この駅路には、402の駅に駅馬3487疋(頭)が配備されていたと言います。駅については、万葉集に、次のような東(あずま)歌があります。

 「鈴が音の早馬(はゆま)駅家(うまや)の堤井(つつみゐ)の水をたまへな妹が直手(ただて)よ」(巻14、3439)
 (駅鈴の音が響く早馬駅家の堤井の水を飲ませてくださいな、妹(いも)のその手で。)

早馬駅家は公用馬を置く駅舎です。街道に沿って30里(現在で言う4里強)ごとに置かれました。  駅の利用に際しては下賜された鈴と伝符とを示して、位階に応じるだけの乗り替えの馬を徴用したのです。そのように官吏の旅には欠かせなかった駅鈴ですが、今日実物を保管する所は日本全国の中でただ一箇所、この玉若酢命神社だけです。昭和11年、隠岐の玉若酢命神社を訪れた小琴はそのいにしえの鈴を振り、さやかな音色を深く心に留めています。

鈴屋本居宣長

宣長書斎「鈴屋」(本居宣長記念館内)。床の軸「県居大人之霊位」の県居大人(あがたいのうし)は宣長の師賀茂真淵のこと。

  ところで、鈴の音色をことのほか愛したことで知られる人に国学者本居宣長(享保15年5月7日(1730.6.21)〜享和元年9月29日(1801.11.5))がいます。宣長は五十鈴川の清流に近い神域伊勢松坂の人。町医者を営むかたわら勉学に励み、弟子も育てて講義もする忙しい学者の生活を続けました。根を詰めた勉学の合間には書斎の柱に掛けた鈴を振り、その音色にいっとき疲れを瘉しては再び学問に励むのが習いであったと言います。残した著作の膨大な量を思えば、宣長がいかに71年の長寿に恵まれたとは言ってもその勉強量は尋常なものではありません。時間という時間を無駄なく読み書きに費やしたに違いなく、わずかに鈴の音を聴くことほどが気分転換の手立てであったということでしょうか。今となっては質量共に神業のようにさえ見える宣長の仕事を思い遣るに、孤独な勉学の疲れが澄んだ鈴の音にかき消されてゆくという机辺のイメージは実に美しく、学問の場として感動的なものです。
  その宣長の書斎の鈴とは宣長自身が考案したもので、六個の小鈴を六箇所に赤い紐で結びつけて柱に掛け、垂らした紐の端を引いて三十六の鈴を振り鳴らす仕組みでした。この鈴の存在で、書斎は鈴屋(すずのや)と称し、宣長の号にもなったのです。「鈴屋集」巻五はこのことを、

 「鈴屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけおきて、物むつかしきをりをり引ならして、それが音をきけば、ここちもすがすがしくおもほゆ」

と記しています。この三十六鈴の柱掛鈴の実物は残っていませんが、三重県松阪市殿町にある本居宣長記念館には宣長の長子春庭(はるにわ)が作ったとされるレプリカが保存されています。

書斎にあったという、三十六鈴柱掛鈴(本居宣長記念館蔵)。
宣長の蔵品。隠岐の玉若酢命神社蔵品を摸した物(本居宣長記念館蔵)。

 

  宣長のコレクションの中には何と隠岐の玉若酢命神社の蔵品であるあの駅鈴を摸して作った“駅鈴”もありました。江戸のこの時期、隠岐に駅鈴が残っていることが世に知られていたこと、また由緒ある貴重なものとして関心を持たれていたことが分かります。

 「唐金の大(おほき)なる形、隠岐国造(おきのくにのみやつこ)の家に古くつたはりたる形を鋳させて、松平周防守殿よりおくられたるなり」

と春庭の書附にあります(春庭書附の実物は現存しない。記述は写された記録に拠る)。松平周防守殿とは石見浜田(いわみはまだ・現島根県浜田市)藩主松平康定(1747〜1807)のこと。寛政7年8月13日、松平康定が伊勢参宮の途中松坂に滞在した折、宣長は請われて「源氏物語」の講釈をしました。その聴講に先立って、宣長が鈴を愛することを知っていた康定は駅鈴の模型を宣長に贈ったのでした。鈴に添えられていた歌は、

 「かみつ世をかけつゝしぬぶ鈴の屋のいすずの数にいらまくほしも」
(はるか古代に思いを馳せつつ慕い思う鈴屋(先生の門下)の学問の、数多い御弟子の内に私も入れていただきたい。)

大名松平康定から市井の町人学者への挨拶ですが、身分制度とは無関係に自由な学問の世界がそこに見えます。