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比田井南谷レポートレポート   Vol. 19 南谷の欧州遠征―――悪戦苦闘のドキュメント―――

Vol. 19 南谷の欧州遠征―――悪戦苦闘のドキュメント―――

1965年5月1日のニューヨークでの、アレシンスキー、ティン、ゾンダーボルグらとの大筆のパーフォーマンスの直後、急遽、南谷はヨーロッパに向かった(5月5日)。南谷は1月のミーチュー画廊での個展終了後、ヨーロッパでの書活動に向けて、精力的に動き始めた。海外旅行が自由化(1964 年)されたとはいえ、観光旅行ではなく公的な機関や大学等での講演や文化・芸術活動を目的とするので、日本国政府の許可や相手国との交渉には多大な困難が待ち構えていた。

欧州公演旅行の準備

オランダ、クレラー・ミュラー美術館の館長、A.M. ハンマッハー(A.M.Hammacher)にオランダでの講演の可能性を伺い、西ドイツのイルムトラウト・シャールシュミット=リヒター女史(Irmtraud Schaarschmidt-Richter)と綿密に連絡を取り、イギリスの画家ヴィクター・パスモア(Victor Pasmore)から話を聞いたイギリスでの個展開催や、また同じく友人の安部展也によるイタリアへの招待、などを踏まえて、オランダ・ドイツ・イギリス・イタリアを講演開催のターゲットとした。そして、南谷は外務省情報文化局へ4月から6月にわたる欧州講演旅行の申請を行った。

外務省情報文化局では、この日程内での講演の可能性を各国の日本大使館に問い合わせ、オランダ大使館からは「蘭日協会」での講演が可能であるとの回答を得た。イギリス大使館からは、差し当たってロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art)が講演を受け入れるとの回答を得た。イタリア大使館からは、南谷の申請によって「日本文化会館」での講演が可能との回答を得た。ドイツ大使館からは、ケルンやデュッセルドルフの博物館や大学と折衝したが、この日程内では困難という回答であった。

回答の遅れと日程の窮屈さのため、南谷は各国での個展開催は無理と判断し、講演と映像での紹介、および簡単な実演に絞って、情報局と日程等の交渉を重ねた。ハンマッハーの仲介やイギリス大使の懸命な努力、シャールシュミット=リヒター女史の精力的な紹介等でようやく日程やスケジュールが確定したのは、出発する直前であった。

Ⅰ.オランダ

まず、最初はオランダ最古の大学都市であるライデン(Leiden)に赴き、「国立民族学博物館Rijksmuseum voor Volkenkunde」で、5月7日午後8時から11時、東洋の書道について講演を行った。この民族学博物館は1837年に創設されたが、創立のきっかけはフィリップ・フォン・シーボルト(Philipp von Siebold)が日本滞在中(1823~1828)に蒐集した日本地図をはじめ文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点のコレクションを王家に献上したことに由る。講演は、クレラー・ミュラー美術館の館長、A.M. ハンマッハー(A.M.Hammacher)の仲介で博物館とハーグ(デン・ハーグDen Haag、首都機能をもつ事実上の首都)に本拠地をもつ「蘭日協会Nederlands-Japanse Vereniging」との共催であった。

小葩あて5月19日付のエアメール「オランダは、たった3日だったが、とても気持ちがよかった。・・・大使館の人達が何かと親切に世話してくれ、又講演も大成功だった。・・・蘭日協会の分がとりやめになったが(当日が戦没者記念日(注1)で、日本も当時敵国であったため)その分の聴衆は、あとの民族学博物館の講演会に合流し、謝礼金も両主催者が別々にくれたので、約70ドルとなった。欧州の講演としては結局最高の手当ということになろう。」

5月8日、イギリスに向かう前に、オランダの有名なチューリップ園を見物して楽しむ様子がフィルムにおさめられている。


南谷が撮影したオランダのチューリップ園

Ⅱ.イギリス

Bath Academy of Art

5月8日夕方に、イギリスのロンドンに到着して、5月10日からのウィルトシャー州コーシャム(Corsham Wiltshire )にあるバース・アカデミー・オブ・アート(Bath Academy of Art)で講演と実演の準備に取りかかった。バース・アカデミー・オブ・アートは、15世紀の貴族の大邸宅の廃墟をそのまま美術学校にして、絵画や彫刻などの授業を行う英国で著名な専門学校で、講演は校長の版画家・画家クリフォード・エリス(Clifford Ellis)から招聘されたものであった。エリスは南谷のことを日本在住の文学講師・詩人のジェームス・カーカップ(James Kirkup)(注2)から紹介されていた。


5月10日 ①午前10時~午後1時
②午後2時~4時 講演および映像
③午後5時~7時  講演・実演・映像
11日 同上の①②③
12日 同上の①② 終了後、列車でロンドンへ帰る。

上記の3日間の①②の受講者は、別グループであって、①②はそれぞれ約30名の受講者、③は約80名の受講者であった。学生たちの評判は良かったが、強行スケジュールと学校の対応に、南谷は不満を漏らしている。

同じく小葩あて5月19日付のエアメール「・・・ここで、3日間に8回講演という、ヒドイ目にあった。心身共にクタクタだ。・・・ここでは恐らく30ポンド、つまり80ドルくらいらしい。しかも、ここでは未だ払わない。大使館で催促してもらっている有様だ。・・・主任先生は最初の時しかついて来ず、その時でさえ紹介もしないで、勝手におやんなさいというわけだ。・・・二回目からは先生もついて来ない。ホッタラカシだ。」


バース・アカデミー・オブ・アート(南谷撮影)

Institute of Contemporary Arts

5月13日には、ロンドンのドーヴァー・ストリートにあったInstitute of Contemporary Arts(ロンドンの現代芸術研究所。略称はICA)で講演を行った。ICAは1947年にH・リード(Sir Herbert Edward Read)が伝統的芸術に挑戦する自由な遊び場としての研究所を構想し、イギリスのシュルレアリスムの創始者のR・ペンローズ(Roland Penrose)らによって創設された最新の実験的な前衛芸術運動の拠点である。ここでの講演では大使館の小高一等書記官が南谷を紹介し、南谷の講演および実演も熱心な聴衆によって大成功であった。

同じく小葩あて5月19日付のエアメールで、南谷は、珍しくイギリスについて文明批評をしている。「大英帝国は、今でも、自国だけがいいと思い込んでいる―――これは一般論だが―――由緒ある立派な国で、このままでよいという具合。つまり典型的な保守主義。衰退してゆく老大国の将来を見た思いだ。折角来て、もう二度とは来まいから、あと10日間に、みっちりよく見て、出来るだけ人々にも接してみようと思う。」

大英博物館

次の講演予定は5月25日で10日以上も間が空くので、南谷は知り合った大英博物館(注3)の学者の紹介で、以前から調べたいと思っていた大英博物館収蔵の木簡調査を試みた。父天来が40年前にこの博物館から取り寄せた木簡のネガ(25枚ほど)が、戦時中に書学院で紛失し、天来が西川寧に与えた焼付の悪いものしか残っていなかったからであった。これを調査して世界に未発表の木簡の焼付を入手して帰国したいと考えて、1日がかりで、博物館で木簡をすべて調査したが、しかし南谷が感激したのはここで「化度寺碑の唐拓」を初めて見たことであった。「書家の中では僕一人だろう」と興奮気味に6月2日付のエアメールで述べている。


5月19日付のエアメール

敦煌本化度寺碑

この間に、南谷は第二回目の渡米で知り合ったイギリスの抽象美術家ヴィクター・パスモアの自宅に招待されたり、オックスフォード大学のカレッジ内でも請われてレクチャーを行った。

Royal College of Art

5月25日に、Royal College of Art( Royal Academy of Arts王立美術院・王立美術学校)で講演を行った。ロンドンの国立の美術大学で、修士号と博士号を授与する美術系大学院大学としては世界で唯一の学校である。1837年に官立デザイン学校(Government School of Design)として創立された。1896年、学校名が現在のロイヤル・カレッジ・オブ・アートに変わり、アート・デザインの実技を重視する。RCAは近代イギリス彫刻が1920年代に誕生する上で重要な役割を果たした。また、1960年代のポップ・アートの発展にも寄与している。出身者には彫刻家ヘンリー・ムーアなどがいて、教員としては画家のフランシス・ベーコンらがいた。
講演は好評であったが、報酬はないに等しかった。

Ⅲ.universitasとcollēgium

もともと、大学を意味する英語のUniversity はラテン語のuniversitasに語源を有する。universitasは「全体、集合体、完全」という意味で、そこから「団体、共同体、組合」といった意味が派生した。12世紀末から13世紀に、中世ヨーロッパのイタリアの自由都市国家ボローニャで最古の中世大学が成立した。最初、ボローニャの世俗的な法律学校は教師の周りに集う小規模の「結社」という形態であった。しかし、交易や経済の活性化によって大都市には各地からの学生が集まり、学生たちが出身地ごとにグループを結成し、自律的な団体universitasを組織した。学生たちは、教会や国家や都市からの危害に対して自ら身を守り、教師たちと契約を交わす。自分たちが必要としている教育を彼ら自身で組織したのであった。教会や国家、自治都市からは自由であったので、教師と学生が集団で他の都市に移住することもあった。大学は固定したキャンパスを持たず、授業は教会や私邸のように場所が使える所ならどこでも行われた。大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。

カレッジcollegeもまたラテン語のコレギウムcollēgium(collēga同僚+-ium集まり)から由来する。 中世では主としてギルド的な団体を意味したが、まもなくユニバーシティの起源をなすuniversitasと同様に、学問的知識の伝達を目的とする学生や教師の団体のみをさすようになる。その起源は中世のパリ、オックスフォード、ケンブリッジ各大学の学寮・寄宿舎にある。当初これらの寄宿舎は修道院や貴族の寄付金によって設立されたが、13世紀に入ると法律に基づく法人団体として次第に組織的なものとなり、教師と学生がともに起居する教育、研究の場所となった。イギリスでは特に、学生を個人指導するチューター制度とともに、独特な寄宿舎教育として発展した。

アメリカでは、1600年代になって、ヨーロッパから清教徒(ピューリタン)たちが新天地を求めて続々と東海岸に渡ってきた。そして1636年にはアメリカで最初の大学であるハーバード大学が創設された。まだ小さな私塾のようなもので、牧師を養成することを主な目的としていた。このようにアメリカで伝統ある大学のほとんどは私立大学として誕生した。19世紀以降、ヨーロッパやアジアからの移民も増え、未開の土地を開拓し、牧場や畑を作った。その過程で、その州の発展を支えるため、農学をはじめとする実践的・職業的な指導を目的として、あらゆる人に教育を与えるべく制度化されたのが州立大学であった。さらに、アメリカでは都市化、産業化が進み、ヨーロッパと異なって高等教育の大衆化が進展した。

南谷が経験したイギリスの大学等の教育機関の不親切さは、学問の自由と大学の自治という歴史的な背景を背負っているように感じられる。大学当局や権力機関が教師の研究教育に過度に介入することを避け、学問の自由を保障した。また学生も自律的・主体的に学習内容を選択する。さらに報酬も、その授業が学生にとって自分の学習目的にかなっていて向上を自覚できる場合に提供するといった、universitasの「教師と学生との契約」、つまり自由で主体的な教育関係によって成立するコミュニティの伝統が背景にあるように感じられる。

Ⅳ.ドイツとイタリア

ドイツ

南谷は、次の目的地ドイツに向かい、5月28日、ドイツ、フランクフルト(Frankfurt am Main)に赴いた。ドイツではシャールシュミット=リヒター(Schaarschmidt-Richter)夫妻の歓迎と世話によって、快適で楽しい日々を過ごしている。

ハイデルベルク大学

5月29日、ハイデルベルク大学(Heidelberg University、Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)(注4)へ行き、松丸東魚(注5)の篆刻の実演(お嬢さんの通訳)と拓本の採取方法の指導を見学した。拓本という技法は、欧米には存在せず、大学教員も参加研究員も熱心に拓本採取の方法を学んでいる。この時、拓本採取をしたのは大学のKUNSTHISTORISCES INSTITUT(哲学部にある「美術史研究所」)の入り口の銘板である。


松丸東魚の篆刻 

松丸東魚の拓本採取

ドイツでのスケジュール(南谷のメモが書かれている)

6月1日に、南谷はこのハイデルベルク大学で講演を行った。講演には、イルムトラウト・シャールシュミット=リヒター女史が同伴し、大学の美術史研究所の研究生とともに講演の手伝いをした。

Städelschule

ヘッセン州のフランクフルトにはシュテーデルシューレ(Städelschule国立造形芸術大学)がある。この大学は1815年銀行家のヨハン・フリードリヒ・シュテーデル(Johann Friedrich Städel) の遺言により設立されたシュテーデル美術館(Das Städel)の付属研究所であったが、1817年国立造形芸術大学となり、現在、世界で最も権威ある芸術アカデミーとなっている。南谷は6月3日(?)に、このシュテーデルシューレで講演を行った。シュテーデルシューレの絵画・デッサン・彫刻の教授やフランクフルター・アルゲマイネ紙の編集者、画商など、多数の聴衆が詰めかけた。講演会後のパーティーは、上記の人たちと打ち解けた場となり、南谷は上機嫌であった。

その後、講演参加者の家に招かれたり、南谷が作品の表装(裏打ち)をする際に、熱心に見学していた、クレーの弟子で画家の女性とも知己となった。

6月8日にドイツを離れ、最後の講演を行うイタリアに向かった。

イタリア

6月11日には、イタリア、ローマの日本文化会館で「極東の書道芸術L’ARTE DELLA CALLIGRAFIA IN ESTREMO ORIENTE」と題した講演と実演を行った。このイタリアの日本文化会館の館長は、西洋古典学の泰斗、呉 茂一(くれ しげいち1897~1977)(注6)であった。


「極東の書道芸術」講演案内状

その後、いったんニューヨークへ戻り、荷物等の整理など帰国の準備をしたのち、6月中旬、日本へ戻った。

欧州遠征から帰って

南谷は1か月ちょっとの期間に、オランダ・イギリス・ドイツ・イタリアを巡り、講演・実演等の強行スケジュールに労力を費やして消耗した。さらに追い打ちをかけたのは、アメリカであれば友人たちとの暖かいコミュニケーションで安らぎを得られたのに、ヨーロッパ人の一見不親切な、距離を取る関係に、神経をすり減らしたことであった。

南谷の作品制作活動は、1965年から次第に減少していく。65を冠した作品は存在していない。1961年から64年にかけての「不思議な墨」による筆線の動きを集中的に追求した大量の制作活動は休止した。アメリカとヨーロッパから帰国した後、南谷は書道教育の必要性を痛感し、戦争末期以来途絶えていた書学院出版部の再開を計画した。さらに、出版の準備を重ねる中、横浜精版研究所の技術を新時代に即して改良しなければならなくなり、印刷精度の向上を目指して全精力を傾注することとなったのであった。

1965年4月ニューヨークで、印刷製版テストのために書いたスケッチが残されている。


製版テストのためのスケッチ

(注1)戦没者記念日
毎年5月4日、第二次世界大戦や、国外の平和維持の為に、オランダ国内外で命を落とした兵士や一般市民を悼んで、オランダは午後8時から2分間、黙とうを捧げる。大日本帝国はオランダ領東インド(中心はジャワ島)の豊富な石油資源の獲得のため、ジャワ島に落下傘部隊で奇襲侵攻し、蘭印軍(オランダ・インドネシア軍)を撃破。ジャワ島の連合軍は降伏、ジャワ島内で82,618名が捕虜となった。そのうち、蘭印軍は66,219名が捕虜となった。日本軍の捕虜に対する扱いとオランダが植民地を失う結果を招いたこともあり、第二次世界大戦後のオランダはヨーロッパでも最も反日感情の強い国の一つとなった。
(注2)ジェームス・カーカップ
ジェイムズ・カーカップ(James Falconer Kirkup、 1918年 – 2009年)は、英国の詩人・劇作家。 ダーラム大学卒。1959-1961年東北大学英文学講師。1963年再来日し、日本女子大学、名古屋大学などで教えた。1964年東京オリンピック記念日本ペンクラブ文学賞に連作詩「海の日本」で最優秀賞。日本との関係が深く、その文章は高校、大学の英語教科書に多く採用された。
(注3)大英博物館 British Museum
世界最大の博物館の一つで、古今東西の美術品や書籍や略奪品など約800万点が収蔵されている。開館1759年 (1753年設立)。収蔵品には大英帝国時代の植民地から持ち込まれたものも多く、ギリシアのパルテノン神殿の彫刻(エルギン・マーブル)などが代表である。現在では、しばしば収蔵品の返還運動も起こされている。大英図書館(British Library)は、大英博物館図書館として最初併設されていた。中国や中央アジアの写本、絵画や遺物のコレクションとしては敦煌の探検家のスタイン・コレクションが有名である。
(注4)ハイデルベルク大学
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルクにある総合大学。1386年創立でドイツ最古の大学。哲学のヘーゲル、社会学のマックス・ヴェーバーなどが教鞭をとった。ノーベル賞受賞者56人を輩出している。
(注5)松丸東魚(長三郎1901-1975)
篆刻家。秦漢古銅印の研究に尽力。鄧石如・趙之謙・呉昌碩に私淑し独学でこれを学んだ。また知丈印社を起こし後進を育成した。白紅社を設立し、清人の書跡や印譜の出版も行った。東方書道会特別賞受賞。日展評議員・毎日書道展諮問委員。 収集した印譜などは古河市にある篆刻美術館に収蔵されている。
(注6)呉茂一
東京帝国大学卒業後、26年にヨーロッパ留学して古代ギリシア文学・ラテン文学を修めた。49年東京大学教養学部教授、50~56年には初代の日本西洋古典学会委員長に就いた。定年退官後、63年在ローマ日本文化会館館長を務めた。『イーリアス』、『オデュッセイア』の翻訳(岩波文庫)は長く読み継がれた。
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