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比田井南谷レポートレポート   Vol. 12 「昭和二十五年度大場所 全日本書道藝術家人気番付」

Vol. 12 「昭和二十五年度大場所 全日本書道藝術家人気番付」

1949(昭和24)年、敗戦後の混乱から生存に必死の国民の間で、娯楽として、また生きる活力として人気を博したのは、大相撲であった。占領下日本(Occupied Japan)で、新聞・ラジオ・雑誌・出版等のGHQ(General Headquarters連合国軍最高司令官総司令部)による検閲(1949年10月に廃止)や言論統制が行われていた。GHQは軍国主義思想の復活を防止するという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるもの(例:国家神道)について活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。この1949年に第三種郵便物(定期刊行物)として認可された「書芸新報」の付録として「昭和二十五年度大場所 全日本書道藝術家人気番付」というものがある。「勧進元 書藝新報社」と銘打たれ、当時の東西の書家たちを「横綱から前頭、相談役・年寄まで」網羅した相撲番付を模した本格的な番付である。(「書芸新報」の主幹は南不乗とされる。)

Ⅰ.大相撲の変遷

 

大相撲は、明治維新と文明開化の潮流によって裸体禁止等の圧迫を受けて衰退していたが、1884(明治17)年に明治天皇の天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この当時、大相撲は東京相撲協会と大阪相撲協会の二つの組織が確立していた。

1.大日本相撲協会の設立と『春秋園』事件

1923(大正⒓)年、関東大震災が起こり、常設相撲場であった両国国技館が焼失した。震災からの復興の後、東京と大阪の協会が合併し、1928(昭和3)年に組織を改め、財団法人・大日本相撲協会と改称した。会長は福田雄太郎(陸軍大将)が就任し、以降、終戦まで陸軍と海軍の大将クラスが会長(理事長)に就任した。1932(昭和7)年、出羽海一門力士32名が関脇・天竜を盟主に大井町の中華料理店『春秋園』に立て籠もり、相撲協会に対し10カ条の改革要求書を提出した。力士たちの低収入とひいきの袖にすがって宴席でのへつらいをしなければ生活が成り立たない状況の改善要求であった。協会との交渉が難航する中、右翼団体の強引な介入もあって、調停は決裂。天竜たちはマゲを落とし協会を脱退し新興力士団を結成した。天竜は「相撲取りは力技を競うサムライ、つまり力士である」という角道の理念を実現しようとしたのであった。新興力士団は大阪を本拠地に丸4年間、独自に興行を続けた。

2.双葉山の連勝

1931(昭和6)年の「柳条湖事件」、1937(昭和12)年の「盧溝橋事件」と戦争の足音が高まる中、大相撲人気はますます高まっていった。この人気に拍車をかけたのが、双葉山の連勝であった。1936(昭和11)年、春場所(1月)7日目から連勝が始まり、関脇となった夏場所(5月)では、2・26事件の戒厳令下で11戦全勝(当時1場所11日)で大関に推挙された。さらに翌年(1937年)春場所11戦全勝、夏場所13戦全勝(昭和14年春場所まで13日間興行)で優勝、横綱に推挙された。7月の「盧溝橋事件」をきっかけに日本と中国とは全面戦争に突入し、軍部の独走により戦火は拡大の一途をたどった。12月に南京が陥落して日本軍の連戦連勝に双葉山の快進撃が重なって、国技館は大入り満員が続いた。国技館内にも「挙国一致」「堅忍持久」「国民精神総動員」の垂れ幕が掲げられ、戦時色が濃厚になった。1938(昭和13)年、横綱双葉山は春場所13戦全勝、夏場所13戦全勝、ここまで負け知らずの66連勝であった。大相撲も朝鮮・満州巡業を行い、力士も召集による出征で休場力士が相次いだ。1939(昭和14)年春場所の4日目に、双葉山は初顔の安藝ノ海にまさかの敗北を期した。無敵の「双葉山敗れる」に号外が出た。連勝記録は69で終わったが、その後、双葉山は復活し、優勝を重ねていった。

3.戦時下の大相撲

長期化し、泥沼化していた日中戦争に加え、1941(昭和16)年12月に日本は真珠湾攻撃によって米英と開戦し、戦線は一挙に太平洋とアジア全体に拡大していった。力士たちも軍服をまとって軍事教練に参加し、靖国神社での勤労奉仕や炭鉱での挺身、倉庫での米運びなども行った。召集で前線へ行った力士、戦死・戦病死した力士、応召によって入幕・出世の遅れた力士もいた。1944(昭和19)年1月までは国技館で本場所を開いたが、空襲激化で建物内の興行は許可されず、昭和19年5月と20年1月場所を繰り上げた19年9月の秋場所は、広い後楽園球場で行った。空襲はますます激しく大規模となり、ついに1945(昭和20)年3月10日未明の、東京下町の大空襲で両国国技館は炎上、両国一帯の相撲部屋も焼失、幕内力士、豊嶋・松浦潟の2人が死亡した。8月、原爆が広島・長崎に投下され、日本は全面降伏し、長い戦争の幕を閉じた。

4.敗戦後の大相撲

連合国軍が焦土と化した東京に進駐し、被災した両国国技館を接収した(10月26日)。戦後初の本場所は国技館で11月16日から10日間の開催興行が許可された。国技館は天井が焼け落ちていたので、青天井の興行であった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、武道、忠臣蔵や侍ものの映画、演劇を禁止したが、相撲の開催は許可した。国技館前には闇市が立ち並び、相撲観戦する進駐軍兵士やMP(military police憲兵・軍警察)の姿も見られた。初日から休場した横綱・双葉山は千秋楽前に引退を表明した。翌年(1946年)の本場所は秋(11月)場所1度だけであった。11月に占領軍によって両国国技館は改修され、メモリアル・ホールと名付けられていた。この年、3月、年寄二所ノ関(元関脇・玉ノ海梅吉)が戦犯容疑で連合軍に呼ばれるが、4月に無罪釈放。元横綱・男女ノ川が戦後初の衆議院議員選挙に立候補し、落選した。

1947(昭和22)年は、夏場所・秋場所の2回であったが、メモリアル・ホールでの開催が許可されず、明治神宮外苑相撲場での野外興行となった(翌年も同様)。1949(昭和24)年、晴雨に関係なく興行できる浜町仮設国技館が完成し、春、夏の本場所が行われ、秋は大阪で行われた。戦後初の4横綱、照國・東富士・前田山・羽黒山が揃い、15日間の興行となった。関脇・力道山、大関千代ノ山の活躍、幕内・栃錦(翌年小結)、十両若ノ花(翌年入幕)などの活躍、この年12月には、両国国技館に代わって蔵前国技館が完成し、大相撲は復興していった。

Ⅱ.全日本書道藝術家人気番付

1.敗戦後の書道界

GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の占領政策は、武道と並んで日本の伝統文化である書道に対しても軍国主義の温床として警戒していた。しかし、書道界では、一方では伝統文化の復権を願うと共に、他方では敗戦後の民主化を迎えて、開かれた芸術活動として未来を切り開くために連帯した。1947(昭和22)年、戦前から広く活躍していた豊道春海が芸術院会員となり、美術界の応援も得て翌年(1948年)、当時官展であった日本美術展(日展)に「第5科書(漢字・かな書)」を開設することに成功した。書道が「美術としての書」として位置づけられたのであった。同年、いち早く全日本書道展(毎日書道展)が始まり、書の新しい動向も含めた包括的な書活動となっていった。

 

2.「昭和二十五年度大場所 全日本書道藝術家人気番付」

1950(昭和25)年は、新旧、伝統と革新が手をつなぎ、書を復興・発展させようと希望にあふれていた年代でもあった。この「昭和二十五年度大場所 全日本書道藝術家人気番付」では、行司として尾上柴舟・豊道春海・吉沢義則・田中親美・羽田春埜、監査役として中台青陵・若海方舟・栄田有宏・重本藝城・南不乗の名がある。東の横綱に鈴木翠軒、大関横綱(横綱で大関も兼ねる)手島右卿、関脇・津金寉仙、小結・上条信山、前頭筆頭・佐藤示右、以下前頭が続く。張出横綱に松本芳翠、張出関脇・大沢雅休、張出小結に西川晴庵・平尾孤往。西方は横綱・高塚竹堂、大関・上田桑鳩、関脇・安東聖空、小結・大沢竹胎、前頭筆頭・相沢春洋で以下前頭が続く。張出横綱・辻本史邑、張出関脇に松井如流・香川春蘭、張出小結・柳田泰雲となっている。

西の前頭の6番目(6枚目?)に比田井南谷が位置付けられ、10番目に熊谷恒子・11番目宇野雪村・12番目金子鴎亭・13番目沖六鵬・14番目篠田桃江・16番目森田子龍となっている。東前頭の10番目石橋犀水・11番目金田心象・12番目森田竹華・13番目徳野大空となっている。さらに、西の別格には桑原翠邦・大石隆子が挙げられ、その他、年寄や相談役まで網羅している。

当時の書家(書道藝術家)の勢力あるいは人気を大相撲の番付を模して表した単なる余興とかお遊び(パロディ)といったものであるが、伝統的な漢字書家とかな書家、そして戦後の革新的な書家、前衛書家まで包括し、狭量で排他的、閉鎖的な書道界から、開放的で自由な書芸術を目指そうとする活気に溢れた新しい時代の到来を表す試みといえよう。名前も忘れられた書家もいるが、その後の書道界の展開と照らし合わせてみるとはなはだ興味深い。

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