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比田井南谷レポートレポート   vol.9 南谷と実存-part2

vol.9 南谷と実存-part2

実存主義

しかし、「実存」という思想が一躍、世界中に流布し、若者たちに強烈に訴えかける力となったのは、ジャン=ポール・サルトル(1905〜1980年)の登場である。サルトルはフッサールの現象学とハイデッガー哲学を学び、1938(昭和13)年、哲学的小説『嘔吐』を発表。第二次大戦中は一時、捕虜となり主著『存在と無』を執筆した。戦後、1945年に「実存主義はヒューマニズムである」(邦題『実存主義とは何か』1955〔昭和30〕年出版)という講演を行った。その講演には多数の聴衆が押しかけ、翌日の新聞は大見出しで「文化的な事件」として伝えた。第二次世界大戦直後のヨーロッパでは、既存の価値観が崩壊し、人々の多くが心のよりどころを喪い、不安と混乱と人間の無力さが露呈されていた。サルトルは、こうした状況の中で不安と虚無をどう乗り越えていくかを論じたのだった。

サルトルはパートナーのボーヴォワールと共に、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェやバーで思索や執筆、論争や発表を行い、この界隈には多くの芸術家やジャーナリスト、学者や文化人が集う熱気あふれるたまり場となっていた。サンジェルマン・デ・プレのミューズ(詩の女神)と呼ばれ黒ずくめの服で毅然と歌うジュリエット・グレコ、「不条理」をテーマとした『異邦人』(1943年)の作者のカミユ、映画『オルフェ』(1949年)の詩人コクトー、サルトル脚本の『賭けはなされた』(1947年)の映画監督ジャン・ドラノワ、人体を極限まで、剥ぎ取り、拭い去り、針金のような存在を提示する彫刻のジャコメッティなど、若者を中心にファッションやライフスタイル、思想に大きな影響を与えていた。メルロー=ポンティはサルトルと雑誌「レ・タン・モデルヌ」を共に著し、状況に対し様々な発言を繰り広げた。

日本では、椎名麟三(『深夜の酒宴』『重き流れの中に』1947年)、埴谷雄高(『死霊第1』1948年)、大江健三郎(「死者の奢り」1957年)安部公房(『砂の女』1962年『他人の顔』1964年)、など、実存主義文学と呼ばれる文学が興隆した。

サルトルの実存

『実存主義とは何か』でサルトルが宣言するのは、第一に「実存existenceは本質essenceに先立つ」ということである。物の場合、その物の性質や素材、その用途がその物に内的に 潜在的に規定されている。つまり、物の場合、本質はその物の可能的存在(本体/形相)である。人間の場合、人間とは何であるのか、そして人間の存在の目的が何か、潜在的に可能的に規定されているのであれば、それが人間の本質となる。例えば、神が人間を創造し、人間の生の出来事を予め定めているのであれば、人間の実存(現実存在)に先立って本質が存在することとなる。

しかしながら、サルトルは人間の場合はそうではなく、「実存が本質に先立っている」と宣言する。ニーチェが宣告したように「神は死んでいる」。そして「神の死」の現実を第2次世界大戦は体験した。

実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。 (『実存主義とは何か』)

 

人間はまず先に現実に存在し、世界内に不意に姿をあらわし、その後で自分で自分の本質をつくり上げようとするものである。「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」。人間は、まず現実に存在し(実存し)、人間になるのである。

したがって、ここから、自ら主体的に生きるという「主体性」の概念が重要となる。自己をつくるということは、未来に向かって自らを投げ出すこと、すなわち、自由に自らの生き方を「投企」し、自己と世界とに価値を与えることである。この投企が成功するかどうかは分からない。生は賭けとなる。私は永久に私の彼方に存在するべく運命づけられている。自由であるべく宿命づけられているのである。

人間が自由な存在であるとは、人間が実存するということである。実存するとは、人間に存在が欠けているという意味であり、それゆえ、人間は存在の裂け目であり、存在の無である。しかも、人間は一定の状況内に置かれていて姿をあらわすのであり、人間の自由は状況における抵抗や障害や困難に遭遇する。したがって、人間が状況内で自由に自己を択ぶことは、同時に自己を拘束すること(アンガージュマン社会参加)となる。サルトルの思想は、実存に新たな光を当て、当時の人々の根源的な不安を直視しそれに立ち向かい、自由に生きることの意味を追求し、人間の尊厳を取り戻す術として人々に受け入れられることになった。

南谷と実存

南谷が「墨象は社会的実存である」と言う背景は、敗戦を契機として、それまでの書に纏わりついた封建的儒教的弊習を断ち切って、主体的に自由に書の芸術性を追求し、書の新たな価値を社会的に実現しようとするための宣言であった。敗戦の直後、これまでの伝統的価値が崩壊し、不安に満ちた混沌とした状況の中で、書の本質は何か、書を書く自分の存在性はどこにあるのか、南谷は思い惑い、答えの見つからない悪戦苦闘の日々を送っていた。この状況を切り拓くため、南谷は書の根源に立ち戻る。主体的に書を書くことの決断は、弊習に纏わりつかれた書を断ち切って、本質としての書に立ち戻ることであった。

主体的に自由に書を書くということは、置かれた状況内で自由に自己を択び、同時に自己を拘束することである。単に書家自身の生命や人間性を無意識に無心のうちに筆に乗せて垂れ流すことではない。何も書かれていない白紙に、一つの点、一本の線を書くことは、自己の存在の裂け目に橋を架けることであり、存在の虚無の深淵を頼りなく綱渡りすることで実存の痕跡をあらわすことである。それゆえ、実存の痕跡を示すことが、頑迷な政治的状況としての白紙に、書家の非政治的人間性(個性)を刻することだと言うのでは、余りにも単純すぎる。そうではなく、古い書道、伝統的な書の旧弊を破壊し、文字性までも断ち切って、覆い隠されている書の本質がそれ自身を白紙の内に見させるものとすることである。白紙は人間の存在忘却、その意味で虚無であり、その虚無に存在(本質)=(この場合、書の本質)を存在せしめようとする主体的な決断となる。この虚無の深淵への綱渡りは、単独で一人歩みを進める自由への不安に満ちている。この自由への恐怖のため、権力者に追従し集団の中に逃避して、決断を避けてしまう安易な道がはびこることになる。

しかし、南谷にとって、この決断は、可能的存在たる書の本質を現実化するための永遠の反復運動とならざるを得ない。繰り返し、繰り返し、南谷は臨書によって鍛錬された線を引き続ける。「それは、ときどきの、ありのままの姿を正直に露呈しようとした」ことにすぎないであろう。しかし、それこそが南谷の実存であった、と言えよう。

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