レポート  − REPORT −

比田井南谷レポートレポート   vol.4 サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)

vol.4 サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)

南谷とブラジル

サンパウロ・ビエンナーレ

ブラジル リオデジャネイロ・オリンピック開催!

2016年8月5日から8月21日まで、28競技306種目の熱き戦いが始まった。初めての南米でのオリンピックである。報道では、いろいろと問題点や不安な状況も指摘されているが、これまでで最多の参加国と最大の選手数で大いに盛り上がっている。

ブラジルと南谷との関わりでは、サンパウロ・ビエンナーレ展がある。

ブラジル文化の多層性

ブラジルは、16世紀ポルトガル人による発見および入植によって植民地となった。やがてポルトガルは金の採掘を求めて奥地探検に乗り出し、先住民(インディオと呼ばれた)と接触、奴隷化していった。その後、砂糖生産を目的としたサトウキビ栽培の大規模農園が建設され、インディオを利用した奴隷労働により一気に主要産業となっていった。こうした奴隷はアフリカから黒人を奴隷として連行することと、インディオを捕獲することで賄われた。1840年代に南東部のリオデジャネイロ県でコーヒーの栽培が成功すると同時に、北東部での砂糖と綿花の栽培が衰退したため、以降コーヒーはブラジルの奴隷制プランテーション農業経済の主軸を担い、19世紀末までブラジルの経済は外国市場と結びついた奴隷制プランテーション農業に規定されることになった。

ポルトガルの植民地支配に対して、スペイン・フランス・オランダ等が植民地獲得の紛争を引き起こした。また、黒人奴隷たちや先住民たちの抵抗や反乱も絶え間なく起こった。文化面では、インディオの先住文化が駆逐された後、ブラジル植民地で、インディオや奴隷とされたアフリカ人の文化と支配者であるポルトガル人の文化が融合し、独自の文化が育まれることになった。ポルトガル人とインディオ、黒人は混血を繰り返し、現在まで続く混血社会ブラジルの基礎が完成した。ブラジルにおいては支配層の白人優位の人種主義が存在し、被支配者となった有色人や女性の生活は貧しく、特に有色人には厳しい奴隷労働が課されることになった。この状況から生まれた社会における有色人や女性の地位の低さは、現在にまで続く問題となってブラジル社会に爪痕を残している。ブラジルの人種や社会および宗教や神話などの多層性をなす文化を理解するためには、映画や音楽が不可欠である。特に、リオデジャネイロのカーニヴァルを背景とし、ボサノバを使った『黒いオルフェ』(1959年マルセル・カミュ監督)やグラウベル・ローシャ監督の『アントニオ・ダス・モルテス』(1969年)等の一連の映画は、活力に満ちたブラジル文化の基層を生き生きと表している。

歴史的には、ブラジルはポルトガルの植民地から、ナポレオン戦争を契機にポルトガルとの連合王国、さらにポルトガルの皇太子を皇帝に推戴して独立した帝政時代(1822年-1889年)、帝政を打倒した共和政時代(1889年-現在)に大別される。

多くの紛争や軍事クーデター、革命運動、さらに軍人の強圧的な独裁や政治的腐敗を経て、第2次世界大戦後、ようやく軍事独裁政権から民主化が推し進められ、1946年に三権分立と大統領直接選挙を定めた新憲法が制定された。その間、サンパウロ州ではコーヒー産業が発展し、奴隷制廃止(1888年帝政末期。キューバとならび最も遅い奴隷制の廃止)後の労働力確保として南欧・中東、そして1908年、日本からの移民を導入した。定着した移民約350万人のうち約200万人がサンパウロに定住したとされる。工業化が進み、サンパウロはブラジル経済の中心地となっていった。文化的には第1次世界大戦後、それまでの西欧文化ではなく「ブラジルのブラジル化」を標榜する文化運動が活発となり、サンバの普及や大学の拡充もなされた。

現在では、ブラジルと言えば連想されるスポーツは、サッカーであろう。サッカーがブラジルに普及したのは1920年代後半になってからである。差別と奴隷制の上に築かれたこの国では、当時でさえ白人は黒人にサッカーをさせたがらなかった。ブラジル代表選手はほとんどが白人選手だった。しかし、サッカーの普及とともに、ブラジルの「混血主義」がこの国のサッカーにリズムと芸術性と狡さをもたらした。これによってブラジルには、イングランドやアルゼンチンといった白人の国より強く美しいサッカーの国になる素地が生まれた。そしてブラジルは1962年のワールドカップで、ペレの活躍で連覇を遂げる。当時のブラジルはまだ暴力とは縁遠く、経済も急速に発展していた。1964年の軍事クーデターはまだ起きていなかった。子どもたちがサッカーをする場所もたくさんあった。貧しい家庭の子どもはビーチで遊んだことがないばかりか、海を目にしたこともない子がほとんどであった。ストリートの空き地でボール1つで遊べるサッカーは、ペレという目標となる英雄を得たことで夢を実現する手段となった。

1946年に新憲法が制定され民主化が実現されて、文化の面でも開放的な雰囲気が満ち溢れた。その一環としてサンパウロ・ビエンナーレが計画された。

サンパウロ・ビエンナーレ

第1回サンパウロ・ビエンナーレ(Bienal Internacional de Artes de São Paulo)は1951年に開始され、以来1991年から1994年の3年間を除き、2年おきに開催されている(ビエンナーレとは2年に1回の意味)。創設したのは、ブラジルの美術や演劇を支援してきたイタリア系ブラジル人実業家、シッシロ・マタラッツォ・ソブリンホである。当時サンパウロではサンパウロ美術館(Masp,1947年)、サンパウロ近代美術館(MAM/SP,1948年)など芸術の拠点となる組織が次々と作られ、ブラジル文化は活況を呈していた。マタラッツォはヴェネツィア・ビエンナーレのような国際美術展を構想し、サンパウロ近代美術館の主催で、23か国を招待して国別展示を行った(日本は第1回から参加し、世界の美術界への復帰の第一歩を踏み出した)。当時、ヴェネツィア・ビエンナーレが西欧の新しい前衛芸術運動を紹介する美術展であり、後には世界の現代美術の様々な動向を紹介する文化イベントと性格を変えていったが、サンパウロ・ビエンナーレは第3世界から西欧世界へ発信する美術展として、ブラジルやラテンアメリカの美術家を世界に紹介した。そして、南米世界には、西欧からパブロ・ピカソ、アルベルト・ジャコメッティ、ルネ・マグリット、ジョージ・グロスらの作品を紹介し、そのほか戦後の新しい美術の動向を担う美術家たちを招待した。第2回(1953年)はサンパウロ市400年祭を記念する大規模なもので、20世紀前半の美術を概観する優れた展覧会となり、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』が展示されたことでもブラジル国内外の注目を集めた。各回のビエンナーレには、美術家の総合ディレクター・キュレーターが就任し、海外の招待国を決めて、その国に出展美術家を推薦させるという方法であった。

書とサンパウロ・ビエンナーレ

第1回には、日本から「版画」で恩地孝四郎・駒井哲郎・棟方志功など、「洋画」では古沢岩美・香月泰男・猪熊弦一郎・三岸節子・宮本三郎・福沢一郎など、「日本画」で伊東深水・東山魁夷など、45名が出品している。第2回(1953年)では、日本側のコミッショナーに土方定一、今泉篤男、瀧口修造ら7名が選ばれ、展示者を推薦している。「洋画」で岡本太郎・山口薫など、「版画」で駒井哲郎・棟方志功など、17名が出品した。第3回(1955年)は、日本側コミッショナーに今泉篤男、富永惣一、河北倫明ら12名が選ばれ、洋画・版画・彫刻で7名が出品し、「版画」の棟方志功が最高賞を受賞している。

第4回(1957年)のビエンナーレには、キュレーターとしてブラジル大学の美術研究者のペトローザ博士が就任し、書の芸術性に着目して、新たに「墨象」という部門を導入した。「南谷のホームページ」の『生涯』で紹介したように、来日したペトローザ博士に南谷が英語通訳をかって出て、井上有一と手島右卿を選出した。ビエンナーレでは、出品した右卿の「崩壊」が話題を呼んだ。第4回は25名が出品し、「版画」の浜口陽三が外国人最優秀賞を受賞した。

1959年の第5回サンパウロ・ビエンナーレでは、徳大寺公英がコミッショナーを勤め、日本から18名が推薦され、「墨象」で比田井南谷と森田子龍が出品した。この時の他の作家は、「洋画」で斎藤義重・猪熊弦一郎・菅井汲などがいた。

なお、ペトローザ博士はその後、ブラジルの政変に巻き込まれ、亡命先のチリで不遇のうちに客死したということである。「墨象」という部門は、この2回のみの短命であった。

1964年にブラジルで軍事クーデターが起こり、政権掌握後は親米反共の軍事独裁を実行し、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。戒厳令が敷かれ、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成によって、ブラジルは南米における親米反共の砦となった。1965年から1973年までの軍事政権下のビエンナーレは様々な政治的抑圧を受けたため、国内的にも国際的にも重要度が薄れていった。第6回(1961年)には斎藤義重が外国人優秀賞、第8回(1965年)には、菅井汲が外国人優秀賞を受賞したが、以降、日本からの出品者も減少し、数名となっていった。

南谷の第5回サンパウロ・ビエンナーレ(1959年)出品作(国内展示10点東京国立近代美術館)5点は、「作品第42陰(1956)」「作品第58-4陰(1958)」「作品第58-42 陽(1958)」「作品第58-44陽(1958)」「作品第59-2陰(1959)」である。

作品第42陰(1956)

作品第58-4陰(1958)作品第58-4陰(1958)

作品第58-42 陽(1958)作品第58-42 陽(1958)

作品第58-44陽(1958)作品第58-44陽(1958)

作品第59-2陰(1959)作品第59-2陰(1959)

ページのトップへ戻る