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比田井南谷レポートレポート   vol.2 New York Times

vol.2 New York Times

1965年1月、ニューヨークのミー・チュー画廊での個展に際して、ニューヨーク・タイムズ一面に、エリーゼ・グリリによる紹介記事が掲載され、大きな反響を呼びました。その記事の日本語訳を紹介します。

ニューヨーク・タイムズ 1965年 1月31日 日曜日

ニューヨークタイムズ
比田井:古墨の新しい姿  エリーゼ・グリリ著
EliseGrilli

ミーチュー画廊での比田井南谷の渦巻くような黒い墨象は、英語の適切な語がないため、「抽象的なカリグラフィー」と呼ばれる。アーティスト自身は日本語の「書」という語を使うことを好み、それによって、英語の「カリグラフィー」という語に含まれた誤解から身を引き離そうとする。カリグラフィーとは、よく装飾符号や装飾文字で飾り立てられた、過度に美化された完璧な模範書式の一種であるが、東洋ではそのようなものは存在しない。

中国と日本の書表現に対する崇敬は、歴史の黎明期までさかのぼる。たんに綺麗で調和のとれた装飾的な形態と比較して、ここで重要なキーワードは表現という語である。現代の書芸術家である比田井は、自分の作品の抽象的形態が長い書の歴史の理論と実践の鍛錬に由来していることを力説する。また、自分の作品がたんに絵画や造形の立場からでは、十分な評価ができないと主張する。だから、日本の最新の「抽象的なカリグラフィー」の創始者、比田井を理解するため、およそ四千年の東洋の書の発展史を潜(くぐ)る必要がある。

伝統

古代中国の絵的文字は、数千もの創意的書体の文字へと変形され、一つ一つの文字が空間(余白)に構成されて、きわめて洗練された精妙な抽象的デザインで構築されている。これが、空間配置に関する比田井の直感的確信の基礎を形成する。かれの黒と白の生き生きとした形体は、つまるところ、芸術の初めに日本の子どもたちに与えられる繊細で柔軟な筆による毎日の訓練にさかのぼる。幾何学的分割や厳密な対称性なしに、複合した形体を一定の空間に配置する訓練は、芸術的技量へすすむ一歩である。表意文字は東洋人に均整(プロポーション)、律動(リズム)、形体の関係の習練を与える。このような習練は、西洋の芸術家であれば裸体画の研究から引き出すものである。ギリシアの様々な哲学と東洋の賢者たちの哲学とが、それぞれ違った芸術形態を実現したのは、まさにこの点である。

上に述べた点は、東洋のすべての人の遺産としてあてはまる。そして、その点が、少なくとも、マネ、ウィスラー、ドガ、ロートレックの時代以来、ヨーロッパとアメリカを魅了している東洋のデザインの強力なパワーをある程度、説明するであろう。

東と西

しかし、東洋美学の最頂点に置かれ、万人の力の及ばない芸術形式としての東洋の書は、西洋世界にはほとんど理解できない現象である。中国の最高の詩人、僧侶、政治家や画家たちの手から、他のあらゆる芸術より偉大な「書表現の芸術」が湧き出てくる、という中国の金言をどうして理解することができようか? 再び、謎を解く鍵は、表現という言葉にある。

というのは、デザインのすばらしさだけでは、東洋の批評家たちの歓喜を導き出すには十分とは言えないだろう。西洋の私たちは、美しい中世写本を称賛するだけで、もうよいとは言えない。それにまた、私たちが、トビー、フランツ・クライン、ハルトゥング、ピカソ、マシュー、その他の「カリグラフィック」様式の現代美術家の作品を、より身近に感じているわけでもない。おそらく、ミロ、ムンク、クレーの線の質は、ときどき、表現ということに近づくだろうが。しかし、それは西洋世界では稀なことである。というのは、私たちの用具や材質そのものが、一本の線や筆の動きに直接的で率直な人間性全体の流出を妨げるからである。

柔らかな東洋の筆と液体の墨には、アーティストの人間全体の直截的で直接的な発現を妨げるものがない。鋭敏で鍛えられた観衆の目の前で、鼓動の震えと思考の陰翳のすべてが顕わになる―—実際、隠すことはできない――。人間全体の中にあるものすべて、その人の過去や現在の業績、こうしたすべてが直接、筆の動きに流れ出る。そして、一つの点、一筆の動き、その動きがレガートであろうと、スタッカートであろうと、アンダンテやスケルッツォ、マエストーソやフリオーソであろうと、その動きの中に現れる。(音楽用語の方が視覚的なデザイン分析による用語よりも、ここでははるかに役に立つ。)運動は一方向にのみすすむ(修正や書き直しはできない)。形を振り付けるように入念に指図された道をすすむ。

人間性

猛威を振るい、包み隠さず露わにする東洋の筆は、最高の人間性を要求し、最も精妙な芸術性を最高に成功させる。それは、僧侶や政治家や文人たちに「人格崇拝」を生み出す。また、日常生活では様々な職業を遂行しながら同時に芸術家や批評家である人々の間にも「人格崇拝」を生み出す。

歴史的理論的な説明のためには以上でよい。しかし、いま、現代の人間が根底から変容を蒙(こうむ)り、歪みをともなって現れる。日本の書に起こっていることは、セザンヌの時代以来、人間の形姿を自由に扱うようになったことと比べることができよう。言葉と文字は、判読しがたい新たな形態(パターン)への飛翔のための刺激物として、出発点で用いられる。あるいは、何であれ出発点として表意文字を持たない比田井のように、まったく新たな抽象的イメージが筆によって創造される。それでも、比田井は、自分の作品が東洋の書に起源をもつと主張する。

流れを変える

比田井南谷は前の世代の著名な伝統書家の子どもである。南谷は父の知識を引き継ぐとともに、父の蒐集した宝庫、古代の墨、拓本、古法帖、印章やその他の用材等を引き継いだ。父親は、この書という古代芸術そのものの流れを変えようとしている新たな逸脱に注目していた。でも書が生活に密接なもので、現代の息吹に接していることを望んで、この逸脱にまったく反対というわけではなかった。実際、現代の書家のイメージを書く筆の動きは、古代からの伝統の形態の鍛錬から引き出しうる。ただ飾らない純粋さで線表現が現れるように、文学的連想だけが剥ぎとられている。

比田井の作品はとても力強いので、歴史的背景に精通していず、主に造形的価値を追求する西洋の批評家の「無心の眼」の詮索にも十分対抗できる。完全な理解のために、筆に関する歴史と実践がより広い次元を加えるであろうが、比田井自身は、鋭敏な西洋人ならば、もっと直接的にデザインの心奥にアプローチ可能だという利点があると考える。


(エリーゼ・グリリは1947年から日本に在住し、ジャパン・タイムズの批評家と同時に東洋芸術史の教授として東京で活動している。)

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