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比田井南谷レポートレポート   vol.1 カッパの国

vol.1 カッパの国

第一回は南谷が、1961年、第一回渡米の経験を踏まえて、8月1日の朝日新聞に、エスプリを効かせて書の本質について書いた記事をご紹介します。
※新聞の画像をクリックするとPDFでご覧いただけます。

カッパの国

昭和36年 (1961) 8月1日 朝日新聞

カッパの国

書道を紹介するため、私は一昨年の暮れに渡米、一年半ニューヨークやサンフランシスコに滞在した。アメリカ人のためにも、私のためにも、非常に有益であったのは、直接手をとって彼らに「書」を指導し体験させ、そして何ものかを創造させたことであった。

 

彼らを指導するときは、中国や日本の代表的な古法帖を使った。彼らの体験した芸術の歴史には、線表現という分野がなかったから、「書」は彼らにとって、まったく新しい表現手段であった。それゆえ筆を持たせると、書こうとしないで塗ろうとする。私は文字の意味を教えることよりも、まず線の表現を直接に体験させ、理解させるのが目的だった。彼らは、うっかりすると、手本をさかさまに見て習うといったこともめずらしくなかったが、その半面、彼らの純な若々しい心は書の妙味を会得し、ぞくぞく優秀な臨書作品を作った。日本に持ち帰ったこの人たちの作品を友人の書家に見せた時、皆その表現が自由で、理解の仕方がたしかなことに驚いた。

 

私が一番うれしかったのは、アメリカ人が書道の純粋な芸術性について共感を示したことであり、同時に書道に関する年来の持論について、有効な実験をし、確信を強めることが出来たことである。アメリカ人に書道はわからぬというのは間違いである。

 

私が古典を通じて理解している書道は、文学的意味と関係なく、線を通しての人間の表出だと思っている。私は十六年前から、文字のもつ文学的意味を捨てた場で、「書」の美を追求する仕事を続けてきた。現在、私の作品は文字を使わないことが多いが、本質的な「書」の芸術性を抽出したために、文字から離れることが起こったわけである。現在私の作品にたいして、「書」ではないという声が強い。保守作家は、これが「書」だといってくれては迷惑するというわけである。伝統書家は書道の遺産をタンスの中にしまい込んでいる。使うことを知らない。

 

さて、こんど夏のイメージについての作品を依頼されたので、文字の意味を超越し、しかもこの趣旨に合った作品を作ってみようと、いろいろ苦心したがなかなかうまくゆかない。それは、昨今、生活があわただしいせいかもしれない。つまり私は、ある文字を素材として、それから発展してゆくこともあるし、また、そうでない場合もあるが、普通、草稿をたくさん作り、いろいろの形を加えたり、減らしたり、変形したりして、結局自分の心に字が創られるのである。こんどの仕事は苦肉の策として、アメリカ巡回墨絵展の出品作のために準備した近作の中のひとつ「作品第61の1」のためにできた習作から選んでみた。この作品の中には、偶然にも水という篆書の断片が入っているから、全然夏に関係がないわけでもあるまい。

作品  

もしこの作品を見る人が、この作品から、海や雲の夏景色を想像したとしても、それはそれで一向にさしつかえはない。昔の書論の中にも筆意の妙味を形容する言葉に「重きこと崩雲の如し」とか、「繊繊乎として初月の天涯より出づるに似たり」とかいって、単なる描写でなく、書の抽象的な芸術内容を自然の風物にたとえて形容した例がたくさんある。またもっと行動的に出て、この私の作品などによって、書の上手なひとも、下手だとけんそんしているひとも、アメリカ人と同じような気持ちになって、カッパの国へでも遊びにいったつもりで、気楽に古法帖をさかさまにして臨書したら、これもひとつの銷夏法になることだろう。

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