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比田井南谷心線の芸術家・比田井南谷父、天来と弟子たち 3.  仲間たち
父、天来と弟子たち 3

仲間たち

1. 仲間たち

仲間たち

1929(昭和4)年、兵庫から上田桑鳩が鎌倉書学院の天来を訪ねた。天来は門人を採らない主義であったが、桑鳩を第1号の門人として認め、自宅の敷地内に住まわせた。天来が自ら確立した古典学書の方法を世に広めるために弟子を必要としたからとされる。その後、1932(昭和7)年には札幌から、桑原翠邦、金子鷗亭が上京して代々木書学院に通うようになる。群馬から大沢雅休(1890 ~1953、<明治23~昭和28>年)、1933年には土佐の手島右卿が上京して天来に師事した。南谷も出入りした代々木書学院は、天来の蒐集した拓本や古法帖を多く収蔵し、誰もが自由に見られ研究する書道の総合的機関であった。1933年、上田桑鳩をリーダーとして書の様々な可能性を追求するため、「書道芸術社」が結成された。桑原翠邦・金子鷗亭・大沢雅休・手島右卿・比田井南谷らが参加した。この書道芸術社の活動が、戦後の現代書を牽引する思想的源流となった。

写真は1940年、鎌倉建長寺に建立された「天来先生碑」除幕式の後の記念写真。

比田井南谷(1912~1999〈明治45~平成11〉年)

1945(昭和20)年の終戦直後に、南谷は歴史上初めて文字を離れた書「電のヴァリエーション」を書き、翌年発表する。毀誉褒貶を招きながらもこの作品は書道界に大反響を呼んだ。父天来の高弟である手島右卿や大沢雅休の激励もあって、南谷は文字を離れた書芸術の成立を目指し実験の道を進み始めた。

金子鷗亭(1906 ~2001、<明治39~平成13>年)

金子鷗亭は早く1933年に川谷尚亭の主催する「書之研究」誌上に「新調和体」論を発表している。伝統的な書の表現素材の漢詩漢文から、近代以降の漢字かな交じりの口語文・自由詩・短歌・翻訳詩など、誰にでも読める文学作品を表現素材とする提案である。書家の意識の変革だけでなく、書が社会に開かれた芸術表現であることを要求する主張であった。1954(昭和29)年に毎日書道展が「近代詩文書」の部を創設したことによって、全国的に隆盛を極めることとなった。

桑原翠邦(1906~1995、〈明治39~平成7〉年)

天来の弟子たちが、戦後、前衛書・墨象(上田桑鳩・大沢雅休・比田井南谷ら)、象書・少字数書(手島右卿)、近代詩文書(金子鷗亭)と書壇をリードする存在となったが、桑原翠邦は一人天来の臨書の方法論に拘った。師天来の書法を忠実に継ぐ書家として尊敬され、また自ら天来の教えを広めるため全国を遊歴し、各地で実践しながら古典臨書の重要性を説いた。桑原翠邦は現皇太子浩宮殿下のご進講役を務めた。

上田桑鳩(1899~1968〈明治32~昭和43〉年)

戦後、1948(昭和23)年、日展(日本美術展覧会)に「第5科書」が開設され、美術としての書が一般的に受容されるようになった。日展には当初、豊道春海の呼びかけに応じて伝統派から現代派(前衛派)までが幅広く参加した。戦後の自由な思潮によって日展といえども開放的であったといえよう。

1951(昭和26)年の日展に、上田桑鳩が「愛」と題した作品を出品する。この作はあたかも「品」という文字に見えるが、はいはいする自分の孫の造形だという。この作品はタイトルと書字内容が不一致であると、日展当局から好ましくない書として物議をかもした。また、1953(昭和28)年の日展で委嘱作品、大沢雅休の遺作「黒岳黒谿」が陳列を拒否された。背景の空間に墨の飛沫が一面に散らされていることが、日展運営作家の書の規範意識に抵触したといわれる。1955年に上田桑鳩、1956年宇野雪村が脱退し、現代系はすべて去って、日展は第5科書で伝統的なアカデミズムの牙城となった。

毎日書道展は日展と同じく、1948年に戦後の大衆化状況を踏まえて文化の普及をマスメディアと共同して行うという計画で金子鷗亭・飯島春敬らが毎日新聞に働きかけて実現したものである。そこには、従来の漢字・かな・篆刻とともに、前衛書・近代詩文書・少字数書・刻字と新しいジャンルを創設した。

森田子龍(1912~1998〈明治45~平成10〉年)

1951(昭和26)年、上田桑鳩の許にいた森田子龍が編集する『墨美』が創刊された。創刊号には、フランツ・クラインのカリグラフィー的抽象絵画をグラビアとし、前衛抽象画家の長谷川三郎、須田国太郎、美学者の井島勉などの美術界の論客も加わり、書と美術との融合と対立、ジャンルの越境、禅的理論と美学的理論との接点等、熱い議論が闘われていた。翌、1952(昭和27)年1月、森田子龍、井上有一、江口草玄らは、京都で墨人会を結成する。

手島右卿(1901~1987<明治34~昭和62>年)

1954(昭和29)年、手島右卿は漢字1字の書「虚」を制作し、一つあるいは少数の漢字の中に自己の情感や思想のすべてを凝縮する「象書」をスタートさせた。手島右卿は、天来の俯仰法(古法)を突きつめ、一見、平面的な筆の動きの線に複雑微妙な抑揚が隠されていると捉えた。書き進めるうちに、掌が天を仰いだり地に俯いたりする手首の捻りから、強弱、動勢、右左といった変化を一つの線に与えていく書の技法の中に、東洋の陰陽五行思想と対応するものを見ようとした。こうした古典学書の方法的探究から、書の制作は一筆一画という単位ではなく、一本の線の運行によって一つの文字が内包する豊かな観念を出現させることだと解釈した。

2. サン・パウロ・ビエンナーレ展

自然公園

1957(昭和32)年、第4回サン・パウロ・ビエンナーレ展のキュレーターを務めたブラジルのペトローザ博士が日本の現代美術を視察し、出品作家を検証した。書の方面は比田井南谷が案内役を買って出て、覚えたての英語を頼りに打合わせをした。その結果、手島右卿と井上有一の書家二人を選び、出品を依頼した。このとき手島右卿は、『崩壊』という作品を出品した。この作はペトローザが手島右卿を訪ねた際、「何か崩れゆくものを表現しているのか」と言って右卿を驚かせた。漢字の意味の分からない人がそのように感じたことで、手島右卿は改めて書の世界性を確信するに至る。第ニ次大戦中に東京が戦火によって破壊されてゆく状景を作品化したもので、ビエンナーレに集まった人がこの書にまさに崩壊のイメージを感じたと大きな話題となった。

比田井南谷は次の第5回サン・パウロ・ビエンナーレ展(1959年)の出品作家に選ばれ、国内展示10品の中から、5点をビエンナーレで発表した。手島右卿とはまた別の線の表現が海外の人にも享受され、文字の意味とは関わりない芸術の開放性を認識させることとなった。その後、オーストラリアのメルボルンでの個展開催、さらに、「日本美術の伝統と革新展」(オランダ、クレラー・ミュラー国立美術館)の4人展(白隠・棟方志功・篠田桃紅・比田井南谷)に選ばれるなど、南谷の線芸術は海外にも反響を呼ぶようになっていった。

写真は長野県佐久市に作られた「天来自然公園」。比田井天来・小琴と門下の石碑が建っている。

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