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比田井南谷心線の芸術家・比田井南谷プロローグ 3.  臨書と演奏
プロローグ 3

臨書と演奏

書とは鍛錬された線の表現である。鍛錬とは単なる技術的習熟という意味ではなく、書の歴史の流れの中で自覚的に線表現が鍛錬されてきたという意味である。絵画の歴史では自然を対象とした鍛錬(デッサン)はあっても、古典絵画を模写することで描き方や構図の取り方や色彩の効果などの習練はあまり行われていない。

書と音楽

しかし、書の鍛錬の基礎は古典の臨書にある。古典名品を臨書することで筆法や筆の動き、筆の勢い、書の構成などを習得する。その際、自分にとって書きやすいもの、好きなものだけを臨書するのでなく、書きにくいもの、嫌いなものこそ臨書して習練しなければならない。習慣性、筆癖を拭わなければならないからである。この臨書から自己の性情(人間性)が自得できるようになる。そして、臨書を続けることによって、無理な自己主張や我意が洗われ、自然で自由な書が現れる。つまり、書という芸術は、≪演奏≫しなければ十分に理解できない。

音楽では、演奏家は楽器を演奏するという実際行動を通さなければ表現できない。そして表現するための鍛錬は古典楽曲を演奏しなければできない。演奏家は、まず作曲家が指示した通りの譜面に忠実に演奏できるようにしなければならない。演奏しにくいフレーズも習練しなければならない。くり返し習練する中で、自然で自由な音楽が表現できるようになる。

書の鍛錬の場合でも古法帖を習うのは、理解と同時に表現技法の鍛錬のために必要なことである。書家は、まさに作曲家と演奏家を兼ねたようなものである、と南谷は言う。

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