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比田井南谷心線の芸術家・比田井南谷不思議な墨 2.  横浜精版研究所・書学院出版部
不思議な墨 2

横浜精版研究所・書学院出版部

天来習作帖

南谷は、父天来の教えに従い、自立した自由な芸術家として書家とは別の生計の道を考えていた。そこで、山枡康子(小葩)と結婚した1948(昭和23)年、地理調査所(現在の国土地理院)を退職し、横浜に居を移し、印刷工芸・写真製版の技術を生かした製版業の「横浜精版研究所」を設立した。東京高等工芸学校の後身の千葉大学にいた恩師から、貴重なグラビアスクリーンを譲り受けたのがきっかけであった。初めはシルクに印刷することから始めたが、事業としては困難なスタートであった。

1965(昭和40)年、アメリカとヨーロッパから帰国した後、南谷は書道教育の必要性を痛感し、戦争末期以来途絶えていた書学院出版部の再開を計画した。準備を重ねる中、横浜精版研究所の技術を新時代に即して改良しなければならなくなり、印刷精度の向上を目指して全精力を傾注することとなった。1967(昭和42)年に、ようやく事業が回復し、久々の個展を開催した。

書学院出版部再開の最初の発行は、1969(昭和44)年、父天来の「天来習作帖」の復元であった。戦前の粗悪な印刷を、南谷は自ら網点を手書きし、鮮明で正確に天来の書を伝える印象的な印刷にした。久しく待望されていた天来の著書や日中書道史上の稀覯名品などの編集発行に情熱を傾け、『学書筌蹄』全20巻、『余清斎帖』全8巻その他種々の著作物を刊行した。

書学院の出版に集中する間でも、何度か渡米し、講演活動も行った。1974~75(昭和49~50)年には、天来の生地、長野県望月町に「天来記念館」を設立することに努力している。また、1977~78(昭和52~53)年、9回目の渡米でバークレーのカリフォルニア大学東亜図書館で所蔵の約1000種の古碑帖拓本(旧三井文庫所蔵)の調査を実施している。

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