比田井天来

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座談会・天来翁を語る

【出席者】
石田栖湖(司会)、上野利友、岡部蒼風、金子鴎亭、桑原翠邦、手島右卿、比田井小葩、比田井南谷

原点に返って反省の機会

石田
石田
今年は天来先生が生きておられれば丁度百歳になられるのでそれを機会に先生の業績を再認識してもらおうということで記念展が企画されたわけですが、そこで今日は展覧会のもつ意義や業績とか、更には先生の人間像といったことについてお話合いいただきたいと思います。まあ、司会とか何とか固苦しいことでなくフリートーキングの形でお願いしたいのですが、まず桑原先生から口火を切っていただきましょうか。
桑原
桑原
今度先生の展覧会を開くということについては、大きな意義が二つあるんじゃないですか。一つは生誕百年であるということ。それから、今度の催しに「近代書道の開拓者」ということを冒頭にかぶせてあることですね。戦後いろいろ新しい書道も生まれましたけれども、出るものが一応出尽くしたという段階じゃないか。これに対して反省というか検討が加えられるべき時期に到達しているということが言えると思うんです。そのときに、近代書道の開拓者であった天来先生の生涯かけてなさったとととか言われたととを綜合的に振り返ってみれば、これはひとり天来先生の業績を明らかにするということだけでなくて、何かこれによっていまの書道界が、さらに新しい行く道について示唆を与えられるというようなことにもなっていくのではなかろうかと思います。そんなことが、今度の催しに対する大きな柱としての意義として考えられるんじゃないかと思うんです。
金子
金子
おっしゃるとおりだと思うんです。最近だと、今度の天来先生の展覧会を見ても、書道界の人たちは、あっと驚くというようなことはないでしょう。大正から昭和のはじめにかけて、天来先生の活躍期には、書道界では、流儀の型にはまった書が氾濫していた。そのため天来先生のような創作性豊かな作品をはじめて見た人々は、抵抗と、驚きと、おそれの入り交った評価をしたわけです。ところが、戦後になって、近代詩文書、少字数作品、前衛書の作家たちが、しきりに冒険をやらかし、創作性の追求をやったため、一時は書壇の内部はもちろん、一般社会の人々まで新しい書に対して驚きと、侮りと、疑問とを投げかけました。けれども、新しい書が着々と奏功してくるにつけ、保守派の漢字、かなの作家まで創作性をうたい文句に言うようになった。これは天来思想の勝利ですよ。天来先生の進歩的な思想が、今や書道界を掩っているわけで、ちょうど空気のように、その存在を意識しないほどに普及してしまったものとみてよいでしょう。
若しも天来先生の出現がなければ、書道界は今でも伝統芸術として、家元制度的なものにしばられた前近代の哀れな世界に止まっていたかもしれない。今度の展覧会は、先生をもういっぺん再認識するいいチャンスだと思うわけです。
比田井
比田井(南)
今度の展覧会も、たいていの人は今の書とそれほど違わないんじゃないか、何が近代書道の開拓者なのかというふうに考える人も非常に多いんじゃないかと思う。ですからその時代にどうであったかということをはっきりと浮き彫りにして、その時にこれをやったと・・・。
石田
現代書道の出発点に遡って見直すということですね。
手島
手島
現在、書を勉強している人で古典を勉強してると言わない人はないですよね。しかし、古典をどういうふうに見ておるかという点になるとわれわれとかなり違うわけです。理念を抜きにしては書は成り立たないと思うんだが、借りものの理念では困る。一流の技法の中へ古典の形骸を取り入れていくというような行き方が多くて、原書の線質なり筆意なりを底から掘り出しているというようには見えない。つまり自分での発見がないんですわね。浅はかな目だけに頼っていく非科学的な勉強のしかたのように見えるんです。先生の偉いのは「書とは何ぞや」ということを古典を通じてはっきりつかみ取っていることです。書を単に線の芸術といっても、いわゆるラインだけのもので済しては困るんで、古典を勉強するのも一つはほんとの「書線」の鍛えこみであり、そしてその必然的な構築への理の究めかただともいえると思うんですが、これが不徹底のために真の創作にもつながらないし、省のいのちの基盤がなり 立ちかねるのではないでしょうかね。
先生は技法のことにもやかましかったが、結局いかにしてほんとの書線を身につけ、本格のいのちにするかということ、そのためには広く歴史に渉って一つ一つに即したきびしい追求であるべきことを教えてくれたわけで、ありがたいことだったと思いますね。今日の書はある面では進んだところもあろうけれども、末梢的な色どりが多くて本質的には書というものの一線以下でうごめいているのではないでしょうかね。もう一度原点に返るべきだと思うんだが、直ちに太古まで遡らなくても、まず天来先生の前に立ってみる。そして反省の一つの材料にしてみるべきだと思いますね。われわれの仕事がいかに薄っぺらのものであるか、これを識ることのためにも今回の展覧会は意義を持つものと思います。
比田井(南)
今度の展覧会は第一回の「比田井天来遺業展」のときの趣旨と少し変わって、ただの作品展ではなく、天来が一生どういうことをしたかということを焦点にしますから、この展覧会は非常に意義があると思います。
ことに、書道芸術社の皆さんが大家になられて色々の過程を経て現代のところに来たときに、もう一度天来の一生を注ぎ込んだ仕事を振り返ることはわれわれ自身にとっても、また私達に共鳴して、献身する後輩の人達にとっても、有意義な企てであると思います。

学問的に根源を究明

石田
要約すれば、今日の書道のあり方をもう一度天来という原点に立返って検討してみようということになると思いますが、ところでサブタイトルに謳っている「近代書道の開拓者」というのは、われわれ仲間うちでは理屈抜きで納得しているわけですが、もう一歩具体的にいうとどういうことか、その辺のところを……
岡部
岡部
いままでみなさんがいわれたことはなるほどと思うんですが、天来先生が「近代書道開拓の父」であるといわれる、それは一体何を開拓したのか? それを考えますと、「書学院」という名前が示すように、先生は書を学問としてとらえた面が非常に強いと思う。書を科学するというか、学問的に追求するというか、確立するというか、そういう性格がつよかったようです。
ご承知のように、書道そのものを科学的な態度で実験・実証してみたり、あるいは分析・比較してみたり、それをまた綜合してみたり、そういう学問的態度で書に臨み究明していったという、そこには近代の科学的なものの見方、考え方、いうなれば近代的思想の裏づけがあったということです。それまでの人たちは、比較的情念的あるいは主観的-もっとそれをいいことばでいうと、直観的にしか書をつかんでいなかったんですね。だから往々にして根拠のない一人合点的なつかみ方だった。鋭くつかんだ人もいないことはないけれども、案外浅いところでつかんで浅いところでゴキゲンになっていたところがあったと思うんです。それを天来先生は、天稟のいたすところもありましょうし、また時代がそれを要求していたということもあると思うのですが、非常に緻密厳正な学究的態度でその根源を究明していったということ、これが非常に大事な点だと思うのです。
ところで、今日書は隆盛だといいますが、一般的にいって、このような態度が失われているようです。何か甘いところでごきげんになっている人たちが氾潔している。 天来先生を「近代書道の開拓の父」というのは、書を学問として確立した?書学院に参じていた人がいまはそれぞれの独自性を発現しながも、その根底にはそういう厳しい学問的な態度がひそんでいるというか、あるいは含まれているということ、それを抜きにしてその後の書学院同人諸氏の展開を見ることはできないとおもうのです。だから今日の書道界ももっと厳しい態度で、古典研究でも創作の問題でも、もう一度深く問いなおすべきであると、それが今度この展覧会を開く一つの大きな意味ではないでしょうか?
比田井(南)
その学問的な態度をうけついで、新しい運動に踏み切ったのが現在の書学院同人の大部分の方が参加していた書道芸術社だったと思うんです。それこそ、当時の前衛的な存在であり、その情熱がいま現在同人として活動なさっている方の一つの原動力になっていると思う。いま岡部さんの言った、天来の学問としてあるいは科学として行くということが若い作家に受けつがれ、運動となり、現代の書を大きく左右したといっていいと思います。
石田
そういう意味では、書道芸術社があの時点で結成されたということは、次の世代への橋渡しの役割を果したといってよいでしょうね。
岡部
歴史的に見ると、天来先生の中にありながらも、天来先生が書を学問的に追求しているそのことの中でまだ十分に果たし得なかったとも見られるものを、次のゼネレーションが大きく取り上げてロマンチックな運動を展開したという形になると思うんです。
桑原
前のときにもそういう話は出たんだけれども、われわれお互いはだれがどんなことをやろうとみんなわかっているんです。ところがほかの流派というか、系統というか、弟子は、先生の字をそのまま習うべきものだという立場の方々が見ると、書学院だとか比田井天来の弟子だとかいうけれども、やることはみんな違うじゃないか。あれは一体どういうことだと言うらしいんです。このごろじゃ墓参だとか法要だとかいろいろなことが行なわれているけれども、一時はあまりそういう話も開かない。そうすると、行き方そのものがばらばらであるばかりでなく、師弟の情味なんてものはあるのかないのかとも疑うらしいんですね。別の立場から見ればまさにそう見えるだろうけれども、お互いは、長年たったから気持の中でうとうとしくなっているとか、天来先生の恩義を忘れたとかいうことじゃないんで、そういうことが他派、他系統の方々の行き方とあるいは非常に違うんじゃないかと思われます。これを契機にして、やっぱりいままで考えていたことと多少違っていたんだなと、わかってもらえるよすがにもなれば幸ですね。
石田
そういう点は対照的なんで、こちらの側からみるとみんなそれぞれの型の中で仕事をしているように見える。それでいて近代書道だと……。
岡部
近代書道というのはそうじゃないんだけれども、現代の書道界が……。
石田
そういう中で、天来先生のあとを継ぐものがどういう役割りをいまやっているか。
手島
時代眼というものは、どうすることもできない大きな力を持っている、大衆と一緒に動いていくんですから。大衆はいまの書道界のあり方を見て、流行作家のものに近代性があるように錯覚を来たすわけですよ。それはいつの時代でもしかたがないことかも知れないがね。

独自性発現の途開く

桑原
さっきの私の話につけ加えさせていただくと、他派の人たちが書学院系統のものをそういうふうに見ているということだけじゃなくて、今度はお互いわれわれにつながる人たちの間で、われわれは比田井天来門人の桑原翠邦の弟子だ、桑原翠邦だけが、天来先生のいいところをやっているはずだ。また金子先生の門人なら金子先生だけがいいところをやって、ほかの人はそれと違うことをやっているという気持をもちがちでしょう。これがまた困るんです。
天来先生というのは非常に大きい存在なんだから、その人その人で考えろ、それぞれの道を見つけろというのが先生の指導方針で、そのことは決して間違いとは思えない。他派の人のみならず、われわれ門人につながる門流の人たちがそういう狭い考えから見ずに、こういう機会に天来先生がもとで、そのもとがいかに多くのものを含んでいたかということをはっきりとわかってもらいたいと思います。そうしないと、せっかく生涯を通じての先生の作品を並べてみても、何だかわけわからんということに終ってしまうんじゃないかという気がしますね。
石田
そういう意味じゃ、もうちょっと世代を経てくるとますますかすんでくるんじゃないかという気もするんだけれども。(笑)
岡部
桑原先生のいわれたことは、われわれは、それほどりっぱではないにしても、まあそれぞれの世界を展開している。すると、その次の世代は桑原先生だけながめているという形が出てくるわけだ。
桑原
まあどうしてもそうならざるを得ないですね。
手島
われわれの書というものはほとんど先生によってできたもので、先生が苦労して打樹てられたものをそのまま受け継いでいるにすぎないといえる。ところが現在書くものは形からみれば先生のと違っている。根から違ったように思っているものもあるかもしれないけれども、それは感覚だけの問題です。先生がなければ絶対今日の自分はあり得ないんで、理念として発するところは一つであると信じているわけです。それをわかってもらうということだけでも意義があると思う。
岡部
その出てきたところがいちばん大事なところで、ほかの人たちもぜひそこをわかってもらいたい。
桑原
われわれだっていろんな話の端に南谷先生は前衛だと言うけれども、南谷先生だって天来先生ともとは同じものなんだというのです。ほかの人の場合だって同じに言うでしょう。そうするとまた、桑原翠邦は八方美人だから、もとの友だちのことを悪く言って憎まれたくないと思ってことばだけあれもいい、これもいいと言うんだろうと思わないものでもないんだ。天来先生の道を考える場合ただ狭いものだけが先生の行き方じゃないということを根本的に理解してもらわないと。?友情だとか何だとかということで人のことをほめるとか認めるということとは違うわけですよ。
岡部
違いますね。
桑原
そう思われたんじゃぼくらの考えも正当に理解してもらえないし、まして先生の行き方、考え方なんて理解されるわけがない。
比田井
比田井(小)
でも、種が一つでも木が大きくなれば、あっちとこっちじゃずいぶん離れてしまいますよ。
岡部
そういうヴァライティーが出てきているということほど、実は天来先生のりっぱさを証明しているというわけになるんじゃないですか。

教育書道にも古典導入

金子
戦後の書道界が非常に隆昌し、現代芸術としての方向を歩みだしているといわれているけれども、それじゃ天来一門以外の人たちがどのような新しいことをしたか、ですね。それは、金冬心、王鐸、倪元?、張瑞図などの明清作家の再発見であると思うが、これによって作家たちは速成され、技法的には全書壇的にレベルアップされたけれども、思想面での展開は見るべきものがないのではないでしょうかね。天来先生は明清の書は問題にしなかったので、われわれも自然と唐以前を古典と考えておったので、書道界の一般の風潮とは大きな差の生じるのは当然のことであったと思います。
手島
先生は、一点一画全部古典の中から根拠をとっている。筆意を非常に尊ばれたりしたが、同時に構成面の工夫においても、西欧式な造形のあり方を摂り入れ、形象の美の訴えを強くおし出して、在来の書道というものの概念から大きく飛躍したんです。
結局、向こうの造形芸術としての理念と通ずるものがあったということが、今日の書学院系統の新しい仕事がこれを外国に持っていっても、ほかの派よりは近代美術としての説得力を持つわけだろうと思うね。
比田井(南)
必ずしも西洋の技術を勉強したというわけでもないし、科学の基礎を学んだわけではないんですけれども、当時としてはやはり科学性というか、分析的というか、近代的性格をもっていたと思います。父の話した逸話で、今でも覚えているんですが、鳴鶴先生が帝室技芸院の会員に推挙された時、これを辞退した時の弁として、「書は文学や剣術とは共通するが、芸術ではない。焼物師や、塗り物師と一緒にされてはたまらぬ」といわれたが、天来は自分は書は芸術であると確信しているという意味のことを話したことを覚えています。
桑原
先生はあれだこれだといって解説はなさらなかったけれども、肌というか、感覚でちゃんと体得しておられたんじゃないですか。だから、それを書かれれば、そういう理屈にかなったようなものがひとりで次々に生み出せたということだろうと思いますね。
一般には「なれ」というといいことのようにいわれるけれども、天来先生はむしろ習熟ということをいやしんだくらいで、ただなれただけの書は一番いやしまれたわけですから、従来の書道から考えればえらい画期的なものですよ。
金子
先生の書風の学習を禁じ、肉筆手本は一切与えてくれなかったね。一家法を樹てるには、広く古碑帖を究めるより道はないと言って?。先生の書風を真似ないということは当時としては珍らしいことでしたが、今日でもこれは珍しい。天来先生が書道研究は古碑帖中心にやるべきものであるという大道を打ちたてた功績は大きいですよ。創作は古典を広く、深く学ぶことによってのみ可能であるということを身を以って示されたことは偉大な功績だと思います。
このことはまた書教育に大きな影響を与えました。今日の書教育は小、中、高校ともその書風は古典に準拠しております。私たちの小学校の手本などには、芸術性は稀薄で、鉄道教習所で、大塚鶴洞先生に指導を仰ぐことになり、丹羽海鶴先生の「教育勅語」を習ったが、当時としては最優秀の手本でした。今では、中学校や、高校の手本には古典がたくさん挿入してあり、学書の大道を示してあるから今の学生、生徒はしあわせですよ。このような風潮は天来先生の主唱によって行われているものであるが、その源を今の人達は誰も知らない。
桑原
人に聞いた話ですけれども、昔の文部省の中等教員の検定試験の委員に先生がなられたときに古法帖の鑑定を加えた。そうしたら書画屋を養成するのかとか、鑑定家を養成するのかといって陰口をきく人があったそうですが当時としてはそんなもんでしょう。それがやらなきゃいけない科目だから、試験を受ける人はいやでもおうでも鑑識を養わなきゃいかん、臨書もしなくちゃいかんということになったのです。その次の功績は、国民学校の国定教科書のうしろに断片的だけれども古法帖をくっつけたこと、あれだって画期的なことでしょう。そういうことが書道界における教育面というか、古法帖を習うことが当然であるという先例をなしたといえると思います。
金子
天来先生のそういう方向づけがなかったら小学校や中学校で正科になんかなりませんよ。
手島
「書学院は書道の本山である」と先生はよくいわれたが、自分自身教育書道にも携わり、文検委員をされてこの面の改革もして来たので、芸術一本だけでは承知できなかったようです。
比田井(南)
実用書道の面も重視していましたね。
桑原
実現はしなかったけれども「余技書道」もちゃんと広告出されたんだから、それまで含めたものが先生の書道ではあるけれども、中核をなすものは勿論芸術書道だったと思います。
岡部
そういう面にしても、もう一度振り返ってみる必要があるわけですね。

書道革新運動の母体

石田
ところで、今から考えると、当時の門人というのはみんなずいぶん若かったですね。
金子
天来先生は晩年まで門人をとらなかったので先生と門人との年令差は大体三十年ぐらいでしたね。私たちが先生の許に集まった時には古参の門人がいなかったため、若い者は誰に遠慮することなく、自由に発言し、行動することを許されていた。われわれが三十歳前後の時にすでに書学院教授や助教授を許したり、大日本書道院を設立した時にも、われわれ若い者を審査員に登用して会の幹部であるとの自負心を持たせたね。これは、今から思えば先生のおだてであったかも知れない。しかしわれわれはそれを真にうけていい気になって言論をたたかわせ、冒険の作品を書いたものです。このような若い時代の作家環境が、戦後爆発的に新しい書の運動展開の遠因となっていたと思いますね。
それから、先生は門人の類型の排除はやかましかったね。代表門人たちは、つねに自己の歩むべき道の発見について苦心を重ねて、現在になってみれば、桑原先生の古法に帰れという運動、手島先生の少字数(象書)の運動、南谷先生と上田先生による前衛書の運動、私の近代詩文書の運動、これは日本の書道史において記念すべき道標になると思います。これらの新しい書を貫いている前衛精神は、天来先生の大遺産であると思います。天来先生とわれわれとの年令差がこのような結果を生んだように思うのですが。
比田井(南)
大体若いものと話するほうが好きだったですね。功なり名遂げて頭のかたまったものは、話をしても自分の考えと余りかけ離れたことは通じなくなっているところがありますからね。
桑原
桑原・岡部

われわれだっていま考えてみれば、先生におだてられてそれが発奮の材料になったということなんだけれども、しかしまた考えてみると、先生自身は常にものを発見するということに情熱を燃やしていらっしゃるわけで、先生は芸術家だから。相手が子供であろうと若いもんであろうと、何かその中に一つでも認めるものがあれば本気になってそれを喜ばれたということであったんじゃないかと思います。若いから少しおだてれば一生懸命やるだろうということでなくて、真剣になって、おれにないものをこいつは出したということであったんじゃないかと思うわけよ。

比田井(南)
若い人たちの中に何かありやしないか、そういうものを引き出したいということをいつも考えていた。
石田
非常に好奇心が強かったようですね。
比田井(南)
展覧会の出品物でも自分の作品と同じように書いたものは、たとえそれが相当よく書けていても、自分の書を真似ただけのものだから落とすというょうなことがずいぶんありましたからね。もっとも、大抵の場合、真似した作品は、自分のよくない面を強調している場合が多いから……。
手島
美の感受性が非常に強かったわけですね。美の範躊というか、それを一日一日と広げていくことのできる天分の持ち主で、お陰でわれわれも、拙をもって美となすことができるようになったんです。一般の書の人たちの美に対する感じ方は、美的の中の幼稚なきれいごとにすぎないものもあるんだけど。先生はとにかく法書の中にきらいなもののなくなるような育てかたをして下さって、鑑識の幅を広げてくれたことは、非常にありがたいことです。戦後綜合審査に立合うようになって、つくづくそう思いますね。
石田
正にその通りですね。
手島
われわれが一つだけ発見したものがあるとすれば、それは天来を発見したことですよ。たくさんの書道人があっても天来を発見して押し入り弟子になっていったものはわずかなものでしょう。そこがいささか誇りにできるんじゃないですか。
桑原
子飼いの弟子より、ほかから入り込んできたのが多いというのはおもしろいですね。
岡部
当時の事情を考えてみますと、私の推測では、天来先生が当時の書道界にあって、あのような考え方や仕事を打ち出されたというのは、理解されなかったばかりか、かなり抵抗があったと思うんです。書道人の大方はまだ蒙昧な世界の中でごきげんになっていたんでしょう? ところが、天来先生だけいち早く目ざめたというか、ほんとうのあり方に向って沈潜穿鑿していったわけですが、いまから想像すると、それはまったくとてつもないというか、とんでもないことだったのではないかそこへまたどういうわけか知らないが、こういう若い連中が集まっていった。(笑)なぜ集まったかということ。ハッキリそれと意識していなかったかもしれないが、何か先生の中に自分の求める新しい書の真実が動いているんだという共鳴、共感があってのことでしょう。
金子
金子・石田

当時の書道界では、天来先生は特別に偉い人だということはあまり知られていなかった。むしろ批判がきびしかったのであろうと思います。私たちが十五、六歳のころ、札幌で魚目先生を中心にして淳風会というものをつくっていた。その研究会で雑誌などで作品写真をみて、比田井天来はおそるべきものだ、これは偉大なる作家であるということをわれわれが話し合っていた。天来先生が書における唯一絶対の神であるという信念を持ったのですが、まだ子供のころにそのように信じることのできたことが今日につながっているわけです。

比田井(南)
しかしそういう天来の価値を発見する目を持っていたということ?これが大した事だったわけね。 あの時代の天来の作品といったら、クモの巣を張り回したようだとか、鳴鶴先生でさえ、このごろは剛毛などという野蛮なもので狂怪な筆を弄するものがいる(笑)―昔の「書勢」?
そういう状態のときに天来の中に何かあるというふうに発見したということは、先生方の目がほかのものと違ったものがあったのだと思う。
石田
われわれ北海道の人間から言うと……。
岡部
あたりまえか……(笑)
石田
いや、そうじゃなくて、筆をもち初めた頃は天来、海鶴、尚亭といった先生しか知らないような環境だったんだね。今はえらい先生が沢山いすぎて迷ってしまうと思うな。
岡部
いや、昔でもかなりありますよ。状況は同じだよ。
桑原
私だけのことを言えば、一つの幸せは、大塚鶴洞という手ほどきを受けた先生がいまの書道界で一番偉いのは比田井天来だと公式的に教えてくれた。これは非常にありがたい。
それから、われわれだっていろいろ遍歴しているわけでしょう。そんなこと言っちゃおかしいけれども、ある著名の流儀になるとわれわれの力が行き過ぎて、持っている力を殺さないと手本に似ないんです。相撲や剣道にたとえて見てもそんなばかなことがあるかということを子供心に考えました。それが天来先生のものになると、いくら頑張ったってできるものではない。
手島
尚亭先生に天来先生のことをいつも聞いておったから、無条件に信じたわけだが、少年の頃なので半切を見てはびっくりした。芸術的香気は受けたが、豪気がおし寄せて鳴鶴翁のような親しみはあんまり感じなかったな。
岡部
そういう天来先生のあり方は当時としてはたいへんなことでしょう。まだそれほど書壇的に勢力あったわけじゃないですからね。
桑原
わかっている人たちの間には、天来先生という存在は絶対であり偉大であったけれども、一般の方にはあまり認識されなかったんじゃないですか、大本営の看板を書いたとか芸術院会員になられたとかいうことで、急に世間の人はそんなに偉い人だったかということでなかったかと思う。
岡部
共鳴してから感激して若い人が集まった事態、天来先生が古法帖学習中心主義を唱導されたがあのころはまだ一般にはそれほどわかっていなかった。ところがやがて平凡社が「書道全集」を出すとか、いろいろ古典の出版が始まってくることもあって、それからあとは次第に書道の学習は古典研究を重視しなければならないという観念が浸透し、しかも今日ではそれが定説化している。
そういうことを振り返ってみると、いかに、天来先生が先見の明をもたれていたか。そこへ集まった人たちもさすがによくそれを見とったとおもうのですが、要するに新しい時代を切り開くもとが天来先生の研究そのものの中にあったということを痛切に感じますね。だからここにおいてもう一度そういう時代のあり方をわれわれが再確認するという態度がいまお互いに必要なのじゃないですか?
手島
鳴鶴翁の門人ということになっておっても独学的に勉強した方だから、若いものにも勝手にやれという式であったですね。それを先生は大成する行き方だと信じていたに違いないと思うね。とに角先生は、愛の人でしたね。門人を広くかわいがったが、その長所や短所はさすがによく見抜いていて、あれは書は全然だめだが、人柄がいいし、仕事も盛んにやっているからということで書壇の要所に据えたりもした。ところが、それがそのまま通用し、先生の最高弟としてその書までが疑いなく認められるのであるから、世の中はおそろしい。(笑)
石田
先生もそこまでは見抜けなかった……。
手島
そこをはっきり整理しなかったところが、やっぱり先生の先生らしいところで……。(笑)
金子
先生は古碑帖中心で初学者を指導しておったということ。いまから考えれば何でもないようなことだけれども、当時としてはとれはたいへんなことなんです。 いま新しく書を学ぶ人が古典を学ぶということはもう当然のことだと思っているけれども、われわれ書を学びはじめたころには古碑帖から直接学ぶといってもはじめはとりつくしまがなかった。
手島
とにかく手本は一つも与えないんだからね。
石田
われわれに関する限り、おそらく手本もらったり添削受けたりした人はなかったでしょう。
手島
月謝も払わない。(笑)
桑原
ご飯は出してくれるし、言うところないもの。
比田井(南)
晩めしとそれに必ず一杯ね……。(笑)
岡部
ぼくは昭和八、九年ごろから書学院に伺ったわけですが、思い出すのは、書生部屋があってみんな碁なんか打ってとぐろまいていたでしょう。おそるおそるそこをのぞいてみると、梁山伯じゃないけれどもとにかく生き生きとしたというか、ものすごい雰囲気がムンムンとしている。今日どこかにああいうグループがあるかしらね。ただおそるべき雰囲気でしたよ。
石田
若いくせにひとくせありそうなのばかりが集まってる感じでね。いまから考えるとちょっと想像できないよね…。
比田井(南)
書道芸術社は上田さんの主唱で始まったんですか。
桑原
私が東京へ出たのが昭和七年で、「書道春秋」を先生が出していらっしゃったけれども、これはたいへんだということで、平凡社の雑誌として野本さんにやらせたわけです。ところがどうも上田さんの考え方からすればあきたらないものがあったんじゃないですか。もっと天来先生のお気持ちに近いものを自分たちでやろうということだったんじゃないかと思うんだ。
岡部
野本白雲が平凡社で引きうけて出した「書道春秋」がおもしろくない。必ずしもわれわれの考えている方向でないということで、要するに、われわれがやらなくちゃということが動機であったということ。それから天来先生を顧問とかに入れなかった理由については、先生を疎外したというのじゃなくて、自分たちはどんなことをやり出すかわからないんだから先生に迷惑をかけてはいけない。われわれだけの責任でやろうということで入っていただかなかったとも上田さんは言っていましたね。
桑原
しかし、作品なんかはお願いして、天来先生の時々のものを出していたでしょう。
岡部
 書道芸術社運動はそれなりに輝かしい成果をのこしたとはおもいますが、それと裏腹に、あるいは天来先生の中にあった、ある大事な面が希薄化していったところもあるんじゃないかという見方はどうなんでしょうね。
手島
天来先生は創造的であるといっても可能と不可能との限界を知っておったと思うんですよ。ところがある人は不可能のところも可能のように考えてどんどん進んでいったから、見方によれば偏してしまったということも言える。偏すれば必らず何かが希薄になる。
桑原
ふしぎなことだね。

煉丹術で門前市を成す

石田
この辺で少しやわらかい話にかえましょうか。
金子
先生を横から見た逸話、人間天来について、先生の身辺に常におった上野さんとして何か鮮かな印象はありませんか。
上野
上野
経理は暗かったわけではありませんが、何しろ計画が遠大で、それに何事も良心的だったせいですかね、出費には無関心でしたね。
比田井(南)
経理がまずかったわけではないと思うが・・・。ある手相見が、この人は金はうんと入るが、みな出ていってしまうといったそうです。
金子
南谷先生のお小遣いは?
比田井(南)
おふくろからもらった。おやじからもらったこと覚えてないな。
金子
上野さんは何年から先生のところに……。
上野
大正十二年の六月に来たんです。丁度、二十ヵ月に及ぶ「学書筌蹄」の刊行が終ってお祝いの会があった頃です。事務所には田中誠雨さんと田中鹿川さんはもう前からいたんです。
石田
煉丹術ってのは…。
上野
朝掃除する前に家族を集めてすわらして、白隠和尚から伝わってきた煉丹術を使って「般若心経」をやりながら一つ、我が気海丹田…
金子
あれで健康増進したと思いますか。
上野
私らもやらせられましたけれども、一ヵ月位やっておりますと、ものすごい痰が出てくるんです。
石田
それで煉丹術……。(笑)
上野
あれであなた方(南谷に)月にどのくらいかもらったんじゃないですか。
比田井(南)
当時の大衆雑誌「キング」からたのまれて、記事を書いたところが人が来まして、いいことを勉強しに来たんだからといってご馳走して教えるわけです。それも月謝とらないで。もちろん。
金子
たくさん来て、先生弱っちゃったんじゃないの。
上野
毎朝早く十五、六人ぐらい見えたんじゃないですか。
比田井(南)
おやじは若いとき、とてもやせていて、おそらく肺病だったんだろうと思う。それが練丹術で直ったということことです。たしかお寺か何かで、白隠禅師の錬丹術の講習会を受けたようです。ところがあとでは、それだけじゃおもしろくないんで、そこへいろいろな体操を入れたわけです。その体操が先ほどの……。目のところをこうやったり、歯をガツガツかみ合わせて音を出す。これは唾波線の分泌を促すため。自彊術が入って来た。
上野
天来先生が震災で書斎をつぶされ、鳴鶴先生の没後ゆずり受けた法帖で膨大になった蔵書の心配やら、その他いろいろ心配されて、そのために多少神経衰弱になってしまわれた。落ちつきがなくて部屋の中をあっちとっち歩き回って、これじゃからだが思いやられるというんで長野県の望月へ疎開しました。ここに一月ぐらいいましたが、上田の別邸を借りて、書斎をつくって全部梱包解いてようやく落ちつかれたらノイローゼが直ったんです。そのときに南谷先生の中学(長野県上田中学)の体操の先生が来て、この先生の自彊術の話を聞き、これを錬丹術にとり入れ……。
石田
昭和四年に北海道に来られたときはお寺に滞在されて、僕たちもやらされましたね。グニャグニャいいながらやるんだけど、先生は座ってからだを曲げると手首が足の先まで行くんで、柔かいのに驚きましたね。僕なんかとても足首までも届かない。
桑原
一時灸もずいぶん?私もからだ悪かったでしょう。灸をすえろと顔を見るたびいわれましたよ。私の三里の灸点は天来先生がおろして下すったんです。あとで村上北海さんのお父さんが、灸じゃ偉かったんだけれども、天来先生というのは字を書いてどれほど偉い人か知らんけれども、おろした三里の点はまさに専門家以上だと、灸点のあとを見てそう言ったね。
石田
弘法灸というのがありましたね。
比田井(南)
あの大きいお灸……。それは一寸あとでしょう。これは皆さん被害者がたくさんいるでしょう。
桑原
ぼくは行かなかった。
比田井(南)
しかし人をつれて行った時には、あとでご馳走してくれるんです。駒形のどじょう料理とか……。
金子
私もやられたが、一番の被害者は上野さんだよ。一緒にお灸したら一人だけ倒れちゃった。
上野
たまらなくなって貧血起こしたんです。
石田
僕もずいぶん強要されたが、どこまでも断わった。そしたら先生、いやがらせをいうんです。お前は青瓢箪でヒヨロヒヨロしてるからもうじき死ぬぞ。(笑)。意地わるじいさんだったね。

応接室で乞食と快談

金子
いま自分と比較して感心するのは、先生は紹介状なんか持たない田舎のオッツアンであろうと、アンチャンであろうと会いましたね。あの狭い応接間へ通して。
桑原
これは偉いですね。
金子
ぼくは二度聞いたことがある。「先生、そんなお忙しい体で貴重な時間もったいないじゃありませんか。」と申し上げたら、先生の言うには、どんな相手でもその人の話を聞いていると、その中には必ず教えられることがあるから、わしは話を聞くことにしている。新しい人と会うということは興味あることだと言われました。
比田井(南)
乞食を入れて話を聞いたという話……。
桑原
田中さんか誰かが金をやったら、金は要らない、天来先生に合わせてくれという、金が足らないのかと思って当時としては破格の金をまたやったんだけれども、どうしても先生に会わしてほしいという。さじを投げて先生に話したら、そうかといって簡単に会って、応接間で呵々大笑して二人が楽しそうだったというわけ。後で「乞食も会ってみると得るところがある」とかおっしゃったと高石峰が言っていましたよ。「何得るところがありましたか」と聞いたら、「それはお前に宿題にしょう」といわれた。幾日か考えてこれこれですかと聞いたら、まあ大体そんなところだといわれたとか。
手島
純情で童心でお人好しときているから、コロリとだまされるときもあった。
比田井(小)
上野・比田井

そのほかの面ではいろんな発明があったんじゃないですか。

手島
新案特許を四十くらいもとっているそうですが、とりっぱなしで、とるだけがおもしろいんですね。
比田井(南)
墨すり器械だとか、湯あかを濾過する循環方式の風呂だとか?。これは駄目だったね。あかがたまると湯の循環が止まっちゃう。
金子
オンドルはどう?
比田井(南)
朝鮮の本式のオンドルのやり方です。
桑原
服飾の面になると、″書学院服〃(笑)というものを発明??広島へお供したとき駅の改札口にいた特高のおまわりが追っかけてきて、あの人はどういう人ですかと僕に聞きましたよ。
比田井(南)
書学院服はね、私の洋服をつくるので洋服屋が来た時、そこヘノコノコと入ってきまして、おれも一つ新しい服をつくりたいから考えてくれと。和服というものはどうも外出するときにぐあいが悪い。袴なしでめんどうなくて、すぐ着物の上へ着られるもの出来ないかというわけです。結局、上着は背広で、下は袴のようなスカートのついたワンピースをつくらせて着ておったですね。
石田
そんなもの着て旅行するの?
上野
ええ、平気でした。
  

素質ある者は刑務所へ

金子
私が結婚したのは昭和八年ですが、その宴席に先生御夫妻が見えての話ですが、私の伯父の長沼政五郎が驚ろいちゃった。先生の言うには、とにかく勉強時間が足らん。人間に寝る時間と、食事の時間がなければどんなにいいかと思う、とまじめに話していました。伯父もあとから、これまでずい分いろんな人に会ったけれども、いまだかつて天来先生のような変った人に会ったことがないと言っていました。ともかく、寝ないで、食わないで勉強したいとは、なかなか言えることじゃないよ。
岡部
だから刑務所へ入れろという論も出てくるわけでしょう。(笑)いまの書家は一般に勉強が足りない。だから素質のありそうな奴を選抜して五年くらい刑務所にぶっ込んでおく、部屋代も食費の心配もないし、ほかのことは何もさせない。ただ書の用具と法帖をふんだんに与えておく。そうすると書かざるを得ないからしょっちゅう書いていることになるから実力がついてくる。それでなければほんとうの書家は出て来ない。と。
桑原
何しろ思いつきが多いから。
比田井(南)
剛毛から羊毛に移ったときのエピソードもあるんです。美術学校の師範科で教えていた時のことです。剛毛で習ったものは、柔毛は到底使えなくなるから、学生が師範学校の教師になればそれで指導する。師範学校の生徒は小学校の先生になる。剛毛は価が高いうえに、墨で固めて使うとすぐ禿筆にしてしまう。上級学校の生徒はいざしらず、小学校までがこれを用いるとなると、品不足の剛毛は益々高くなり、到底小学生の負担に耐えなくなるだろうということに気が付いたというんです。そこで、小学生には馬毛と羊毛の兼毫筆が最も適しているという結論に達した。ところがこの様に教育者の見地からやむを得ず美術学校の学生に限り弱毛を使って、指導に工夫を凝らしていた時、図らずも羊毛で俯仰法を行う独得な用筆法を発見したというんですがね。例の戊寅帖などこれですよ。経済問題が動機になったという処など親父らしいですね。
上野
筆についてもずいぶん研究しておられました。樺太へ行った時に山馬にかわる毛はないだろうか、オットセイはしょっちゅう海の中に入っているから強くて材料になるんじゃないかと。図書館長さんを訪ねて、オットセイの毛は筆一本分ぐらいしかもらってこなかったけれども、トナカイは皮一枚分もらってきたんです。東京に持ってきたけれども、どうもあれはうまくいかなかった様です。毛の中に穴があいていないとか何とかで。
手島
古法を発見してから、剛毛で一をすっと引いたら初めと終りがカチッとできたと、嬉しくてじっとしておれなかったらしいです。すぐに丹羽先生のところへ飛んでいった。
桑原
それの出来たときのことを小琴先生に伺ったけれども、朝暗いうちに「おい、みんな起きろ、起きろ、これ見ろ」と。指さされたものを見ると、無数に〝一〟が引っぱってあった。私は主人が気が違ったと思いましたと、小琴先生が言われました。それは欧陽詢風の横画が出来たときの話です。先生が郷里におられたとき臨書された原寸全臨の綴りを多数拝見して感じたことは、あの頃の臨書は克明に形は写していらっしゃるけれども必ずしも筆意とか何とかいうものはないですね。鳴鶴先生から受けた影響がもしあれば、形だけではなくて鳴鶴風の運び方をすれば、先生が郷里で一人で原帖をにらんで書いておられたものとは違ったものが出来るという、それが一つの発見でなかったかと思います。それら全臨されたものを拝見しての感じからすると、よい悪いは別としてあれが天来先生の書に対する基本的な態度じゃないかと思います。それを筆意の発見ということによって大きく飛躍し発展されたけれども、ゆるがせにしない全臨主義が、「学書筌蹄」という形にもなったんじゃないかという気がするんです。
比田井(南)
若い時の二十七歳頃の全臨は、うちにも数十冊ありますが、虫食いのところまで来ると筆がとまって虫食いの形まで写しているんです。そこはわからないんだからというわけで、実に克明なものです。
桑原
もう一度拝見させていただいて、私なりの考えをまとめてみたいと思っていますけれども、あれは非常に参考になりました。郷里にいるとき「独習してほぼ各体に通じた」といっていらっしゃるけれども、ああいうものがあれば確かにそうであったということがわかりますね。

鶴翁の書を見てギャフン

石田
鳴鶴先生についたのはいつごろですか。
手島
二十六、七歳ぐらいです。こり性ですからやり出したらとことんまでやる。そのかわりあき性ね。ある程度いってわかったら先へ行く。年に何回か用具を求めに東京へ出てきたが、ある時、「鄭文公碑」を見て飛びつき、四百円かで買って帰った。それはみんな欲しくても金がなくて買えなかったもの。それをすっと一ぺんに買ってしまったので温恭堂のおやじが鳴鶴先生のところに飛んでいって、信州から比田井という青年があれを買っていったというと、鳴鶴先生もびっくりした。この時から比田井という名前を鳴鶴翁は知っていた。それから下碑を習ってやっと手に入ったと思われた時に鳴鶴先生の書を見て、やられた、おれの行く道がなくなったと思った。それでも何とか苦心工夫して一つの趣が拓けたと喜んだとたん、今度は沙鴎の書が狙いのものと同じであったので、また行く道を塞がれたと、こんな話を聞いたことがある。
桑原
沙鴎のことは非常に高く買っておられましたね。
石田
郷里で出した本の中に扇面がありますが、その扇面がばかに沙鴎に通ずるようなところがあったのでおもしろいなと思ったんですけれども。
岡部
たしかに繊細な感受性というか、いいものはよく吸収するというところがあったんですね。単なる唯我独尊的な態度じゃなかったですね。
手島
頭が緻密だったですね。考える力が偉かった。
石田
鳴鶴先生について、鳴鶴先生の書を習わないで、別なものをやっていこうというのは、そのころとして普通でなかったんですね。
比田井(南)
南国・手島

鳴鶴先生もそれをゆるしていた点、偉かったんです。客分扱いというか、先生も天来の見識には一目おいていたところがありますね。うちに鳴鶴先生の皇甫誕の臨書手本が保存されています。こよりで綴じたままのものですが、「これが鳴鶴先生から頂いたたただ一つの臨書手本だ」といっていましたが、どうもこれを習った形跡が全然ないんです。それでいて、先生の信望はとても厚かったんですから。

岡部
天来先生の偉さというのは、早くいえば否定されたともいえる鳴鶴先生のあり方を一こともだめだなんて批判していないことですね。
桑原
それどろか、長年に亘って、極力その顕彰につとめていらっしゃる。
比田井(南)
ただたんに表面的じゃなくて、ほんとうに尊敬していましたですね。書のいろいろなよさを学ぶという態度が、ひいては自分と正反対な人格を理解し、尊敬するというと今ころに結びついているんですね。
手島
鳴鶴先生もそういうところが偉かったですね。人によって区別したんじゃないかな、天来先生と渡辺沙鴎というのは。
石田
ほかの門人は、ほとんど鳴鶴流ですね。かなりきびしくしめつけられたんではないかと思えるんだけど。
比田井(南)
黒崎研堂に呈した詩を作った時、鳴鶴先生とそれから三島中洲、田辺松坡の三先生に詩の批評をこうた原稿が残っていますが、鳴鶴先生の分は特に出来のいいものを送っている。先生の詩評のあとに付記として、「兄の書法天真爛漫、一毫媚嘸の態なし云々」と大変な讃辞がついている。鳴鶴先生必ずしも、剛毛がよくないというんじゃなくて、作品が悪い場合に剛毛はよくないといったんでしょうね。
手島
潤うていけばいいわけですから、潤うものを書けないものにはだめだと言ったんじゃないですか。
比田井(南)
これからあとは展覧会を見ていろいろ皆さんに批評していただくことにいたしましょう。
石田
では、この程度でとめておきます。
                           (了)
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