天来書院

天来の会書展


講演とパネルディスカッション


第1部 「比田井天来と門下の臨書」/基調講演

天来は東京美術学校で何を教えたか

比田井天来

講師 柳田さやか
日本の近代書道史を研究。東京学芸大学の教育学部 書道専攻を卒業後、同大学院の修士課程を修了。修士論文のテーマは「日本近代における「書」と「美術」―「書ハ美術ナラス」 論争を起点として―」。 このテーマで研究を続け、昨年、筑波大学で博士号を取得。美術館の学芸員を経て、現在、静岡大学などで講師。

はじめに

 ただいまご紹介にあずかりました柳田と申します。本日は多くの方にお集まりいただき、本当にありがとうございます。このような場でお話をさせていただくことを大変嬉しく思っております。どうぞよろしくお願いいたします。なお、講演中は、先生方の敬称を省略させていただきながらお話したく思います。
本日のテーマは、「天来は東京美術学校で何を教えたか」です。この東京美術学校とは、現在の東京芸術大学――芸大のことで、ここで天来は晩年、書の授業をおこなっていました。実は芸大にも書の授業があったということは、一般にはあまり知られていないかもしれません。
 私がまだ書道科の学生であった頃、「教育系の大学に書道科はあるけれど、どうして芸大や美大には書道科がないのだろう?」と素朴な疑問を持ちました。そこから、「書」と「美術」に関する私の研究が始まりましたので、今回、このようなテーマで講演を、とご依頼があったことに、ふしぎな縁を感じています。
 さて、この「天来は東京美術学校で何を教えたか」という問いの答えについて、先に結論から申し上げますと、「臨書」ということになります。これをお聞きになって拍子抜けされた方もいらっしゃるかもしれませんが、天来の時代においては、古典の臨書による授業はとても画期的なことでした。現代においては、臨書は学書法として一般的ですが、この学書法を一般に広めた点こそが、まさに天来の業績といえます。
 本日は、このような構成で、「現代書道の父」といわれる天来の教育的業績に注目し、天来が臨書という学書法の普及を具体的にどのように展開していったのかを探っていきたいと思います。

1 天来と臨書

まずは、天来の臨書歴と、臨書に対する思いをみていきたいと思います。天来は明治5年に長野県に生まれ、26歳で上京します。

結婚当時の写真・図02 結婚当時の写真

こちらは、30歳で結婚した時の写真です。右上の帽子をかぶった男性が天来で、中央の女性が奥さんで、仮名作家として知られるようになる比田井小琴です。

左・比田井天来 右・日下部鳴鶴・図03 左・比田井天来 右・日下部鳴鶴

天来は、上京した頃から、日下部鳴鶴に師事します。この頃の学書法というと、師匠の書風を学ぶことが一般的でしたが、鳴鶴は、自分の書風をまねるのではなく、古典を積極的に学ぶべきだと伝えたといいます。なお、鳴鶴は写真のように、腕を大きくまわして肘をはる「廻腕法」で書いており、天来もそれに倣いましたが、後に、筆を傾けて書く「俯仰法」――「古法」を発見しています。

左・光明皇后臨楽毅論 右・藤原行成臨王羲之尺牘・図04 左・光明皇后臨楽毅論 右・藤原行成臨王羲之尺牘

さて、鳴鶴も重視していた臨書ですが、臨書の例自体は古く、有名なところでは、光明皇后による王羲之の臨書――「楽毅論」が残されています。また、藤原行成が書いたと伝えられる王羲之の臨書もあります。

貫名菘翁臨蘭亭序
・図05 貫名菘翁臨蘭亭序

時代がくだって江戸時代には、鳴鶴が尊敬した貫名菘翁の臨書などが残されています。菘翁は、中国から運ばれてきた法帖をたくさん集めた人として知られ、臨書も多く残しています。そんな菘翁の影響を受け、鳴鶴も臨書を重視します。

日下部鳴鶴臨鄭羲下碑
・図06 日下部鳴鶴臨鄭羲下碑

例えばこの写真は、鳴鶴が当時流行させたといえる北魏の書の臨書です。
 それでは、天来の学書はどうであったかというと、なんと、小学校に入学した頃から、碑版法帖を独学で習っていたそうです。

比田井天来臨蘭亭序・図07 比田井天来臨蘭亭序

こちらの写真は、天来の若い頃の丁寧な臨書で、「蘭亭序」の全臨です。20歳頃には、漢字の五体すべてを書けたそうです。

学書筌蹄・図08 学書筌蹄
図09 天来習作帖・図09 天来習作帖

その後――あとでも触れますが――『学書筌蹄』や『天来習作帖』といった、天来自身の臨書の本を出版していきます。ここでは、よく知られている古典の楷書、行書、草書、そして篆書、隷書の臨書をおこなっています。
 続けて、天来が臨書をどのように捉えていたかというと、「趣味とし又芸術として書を学ぶ者は、先生に就くのもよいが、先生の流儀に固着してしまつてはよくない。先生に就いてもその将来の手本とするものは古法帖及び古碑版でなければ大成することは出来ない」と述べています。また、「古今の劇蹟を学び研究するといふことも、その目的はその芸術的精神を養ひ、またこの表現の方法を発見するといふことでなければならない」とも述べています。ここからは、天来が書を芸術と捉え、その芸術性の表現を発見することなどを目的として、臨書を重視していたことが窺えます。
 ただし、この頃、書家達の中には臨書を重視する人も増え始めていましたが、全国の書道愛好者がそうであったわけではありませんでした。また、学校教育の「習字」や「書キ方」の授業はどうであったかというと、とにかく実用性が第一に求められていました。例えば、「書キ方」の制定に携わった文部省の官僚――澤柳政太郎は、「書には両面あり、一は美術として、一は実用の技能としてなり」とした上で、「小学校に於て授くる所はもとより後者にあり」と明言しています。
 この学校教育について、天来は、当時の「習字」教員は「学校へ行つてゐる時だけは、止むを得ず下手の教科書でも嫌々ながら用ひてゐるが、学力のある教員に限つて、自分の家ではその教科書などは、なるたけ目につかない所へ抛り込んで置くやうな人が多かつた。それは当時に於ける一般の気風であつた」と回想しています。師の鳴鶴についても、「実用書などは読めさへすればよい位に思つてゐたので、学校の習字教育などのことには余り関心をもつていなかつた」としています。その他の文献をみても、書道界が重視する書風と、学校教育がおこなっていた書風とでは溝があったようで、書家達が学校の「習字」をどうにかしようといった積極的な気運は育っていませんでした。
 しかし、そのような時期、天来は教科書に古典を掲載し、学校教育においても臨書をおこなう重要性を説いており、その理念の展開として、臨書を普及させるための教育制度を整えていくことになります。

2 臨書の普及

ここでは、天来による教育改革として、2つの制度に注目しました。「文検」と出版です。1つ目の「文検」とは、師範学校や中学校、高等女学校の教員になるための検定試験のことです。まず、天来はこの「文検」の試験問題の改革をおこなっていくのです。
 「文検」には習字科があり、習字科の合格は書家になるための登竜門のように当時考えられていたそうです。というのも、美術や音楽は明治20年代にすでに専門の学校があり、美術史や音楽史が教えられ、教員になるための場が設けられていましたが、書にはそのような場がありませんでした。そこで、全国の書道愛好者達が「文検」習字科を受験していました。
 「文検」にはその試験問題を作る委員がいて、習字科は岡田起作という書家が務めていましたが、大正5年には天来が加わります。天来は着任後すぐ、この試験問題の改革に取り掛かります。それまでは、決められた語句を楷書、行書、草書で書くという実技問題が出されていましたが、天来はそこへ古典の問題を加えることにし、着任からわずか2年後の大正7年には試験問題が大きく変わったのです。
実際の試験問題を調べてみると、予備試験と本試験に分かれていて、予備試験では漢字は顔真卿、王羲之、孫過庭、仮名は和漢朗詠集の臨書が出されました。本試験では口述試験があり、日本と中国の能書家の名前や、書体は何種類あるかが尋ねられたことがわかります。
 このように突然、古典の試験問題が導入されましたので、全国の受験者達はとても驚いたようです。当時の書道雑誌をみると、受験者に「骨董的な試験」と受け止められるなど、戸惑いがみられたと記されたりしています。
 しかし、古典の問題は毎年出されたため、徐々に受け入れられていくようになります。「文検」受験のための対策本が多く出版されるのですが、そこでは、古典の図版や書道史を説明するものが急激に増えました。さきほど申し上げたように、「文検」は全国に受験者がいますので、古典学習が全国に普及していくツールとして、「文検」は最も効果的ではなかったかと思います。後に、「文検」受験対策本において天来を評価する記述が出てきますし、天来門下の石橋犀水達や、天来自身も、「文検」によって古典学習が普及して良かったと述べています。
 このように、「文検」の試験問題が変わったことで、古典を学習する需要や関心が急速に生まれるわけです。そこで、天来はそれに応えるため、古典の図版を掲載した本を出版していくことにします。

昭代法帖・図10 昭代法帖

天来は、書の研究所として自ら作った書学院から、特にこのような3種の本を出版しています。まず、昭和2年から刊行され始めた『昭代法帖』は、15冊セットの法帖で、このように細長い折帖の形で、手習いがしやすくなっています。例えば王羲之、欧陽詢、顔真卿、空海、嵯峨天皇など、古典の中でも基本となるような作品が選ばれています。

書道鑑識要覧・図11 書道鑑識要覧

また、昭和8年の『書道鑑識要覧』は、「要覧」というように、中国と日本の主要な書を少しずつ載せて一覧にしたものです。「文検」受験者や学習者にとっては、これが一冊あれば便利!といった本です。

書道沿革一覧・図12 書道沿革一覧

この本よりもさらに詳しく、また学術的にも注目されるのが、大正15年の『書道沿革一覧』です。「書道沿革」というのは書道史のことで、この時期によく使用されていた言葉です。この『書道沿革一覧』は、「書道全集」の基礎を築いたともいえるもので、さまざまな図版によって書道史を眺望することができます。特に再版では、朝鮮半島の書の図版も入っている点が画期的で、日中韓の書を通して見られるようになっています。こちらの図版は、崔致遠という人の石碑で、朝鮮半島で人気のあった欧陽詢の書風のものです。
 この他、さきほども触れましたが、天来自身による臨書の出版もなされています。特に有名なのが『学書筌蹄』です。天来は、本来、古典の原本そのものを見て学ぶべきだと考えていますが、それを難しいと感じる初学者もいるため、このような臨書見本を示したということを序文で説明しています。つまり、こういった種類の出版も、臨書という学書法の普及のためであると伝えているのです。
 なお、このように古典の図版集を多く刊行した天来ですが、あわせて書道史の執筆もおこなっています。明治38年に鳴鶴から頼まれ、三省堂の『日本百科大辞典』に書道史の説明を執筆したところから始まり、昭和初期には平凡社の『書道全集』や、雄山閣の『書道講座』のように、シリーズものとして有名な出版物の執筆に携わっています。この時代は、このような出版物によって書道史というものが体系化され、普及していく頃です。天来は、この書道史形成に携わった書家の一人であるといえます。

・図13

ここまでの流れを図で示しますと、このようになります。天来の臨書を重視する理念は、教育に関わる制度へと作用し、特に「文検」と出版への働きかけによって、臨書という学書法が普及していったといえます。

3 東京美術学校の講義
 
教壇に立つ天来・図14 教壇に立つ天来

もう一つ、臨書の普及の方法として、天来がおこなっていたのは、学校現場での実践です。天来は、晩年に東京美術学校に勤めますが、まずはそれまでの経歴と教えていた内容をみてみたいと思います。

・図15
陸軍幼年学校の教官用手帳・図16 陸軍幼年学校の教官用手帳

天来が携わった初めての学校は、明治34年、30歳からの陸軍幼年学校です。大正4年からは東京高等師範学校――現在の筑波大学につながる学校に勤めます。「高等師範」とは、師範学校の先生を育てるための学校で、師範学校の中でも最も先進的で、影響力を持つ場とされていました。そして、昭和7年からは東京美術学校に勤めます。
 陸軍幼年学校が天来の実践の始まりの場ですが、そこで天来はすでに臨書を教えたであろうことがわかっています。本来は、一般の教科書を使用する予定でしたが、それは使用しないことにして、臨書をしたり、書道史を講話したりしたそうです。その講話中に、王羲之、顔真卿という名前をよく挙げていたそうで、それによって、天来のあだ名は王羲之、顔真卿になったというエピソードが残されています。ともかく、当時の学生が「こういった教育法は、当時としては型破りであった」と回想する記事も残っているほど、天来の授業は新しいものであったといえます。
 続く高等師範学校に関しても、天来は古典の臨書と鑑賞をおこなっていたことが指摘されています。また、筑波大学所蔵の資料を調査したところ、明治前期には大島堯田という書家が勤めており、教科書を使って楷書、行書、草書を教えていたということがわかりました。この後、しばらく「習字」の講師はいなかったところへ天来が勤めることになったので、天来が高等師範学校に臨書を導入したといっていいと思います。

・図17

そして最後に勤めるのは東京美術学校で、天来が教えたのは図画師範科という図画の教員になるための学科の学生でした。ここでまず、東京美術学校の歴史を辿ると、明治22年に開校し、絵画科・彫刻科・図案科が設けられます。これよりも前、明治15年にはいわゆる「書ハ美術ナラス」論争というものがありました。洋画家の小山正太郎が書は美術でないと述べ、後に東京美術学校の校長になる岡倉天心がそれに反論をしたものです。当時を回顧する雑誌記事をみると、小山に賛成する意見の方が多く、書を美術として捉えない風潮があったことが窺えます。そのような風潮の中、東京美術学校が誕生しても書の学科を設けることはもともと想定されなかったものと考えられます。その後、昭和24年に東京音楽学校と合併をして、東京芸術大学に改組されますが、ここでもやはり書の学科はないままです。ただし、一時、書の授業が設けられていたことはあったのです。

・図18

まず、天来達が務める前、岡倉天心が校長であった頃には、小杉榲邨という国学者が「書学」という授業をおこなっていました。今でいう教養科目にあたります。芸大に残されている履歴書をみると、小杉は岡倉天心に招聘されたと記されています。この「書学」の授業内容はこれまであまり知られていませんでしたが、当時の受講生の筆記ノートが残されていて、それを確認したところ、古代から近世までの日本書道史を講義していたことがわかりました。明治期に学校教育で書道史を教えていた早い例なのではないかと思っています。残念ながら、岡倉天心が校長を辞めた後、この授業はなくなってしまうのですが、ともかくも、教養科目のような形で、この授業が設けられていたことは注目されます。
 その後、明治40年になると、東京美術学校に図画師範科が新設されます。基本的には、図画の教員になるためのコースなのですが、「習字」の授業も設けられ、希望者がそれを受講すると、「習字」を教える免許状が取得できるというシステムになっていました。「習字」は後に「書道」の名称になります。

・図19

この授業を担当した講師が岡田起作、比田井天来、比田井小琴、石橋犀水、尾上柴舟の5名です。さきほど「文検」のところで名前の挙がった岡田起作がはじめに勤め、その後に天来・小琴が夫婦で勤め始めます。天来が亡くなった後は、天来門下の石橋犀水と、以前から天来と親交のあった仮名の尾上柴舟が務めました。「習字」「書道」の授業は、東京美術学校から芸大へと改組される際になくなってしまいますので、この2人が最後の講師になります。
さて、天来の前に教えていた岡田起作の授業については、卒業生による回顧録が残されて います。それをみると、「書道は一年から三年まであったが、これをやると学校に赴任して書道も受持つことになり、負担が増えるのが嫌で、なるべくやらない連中が多かった」、「担当は岡田起作で、手本を書いてくれた。だが、非常にやかましい先生だったので、生徒は逃げてしまう。二十人試験を受けて免状を貰ったのは五、六人だった」とあり、散々ないわれようです。
 もう一つ、別の回顧録をみますと、とある学生が「岡田先生の例の唐紙肉筆の折手本を、取り替え引替え借りて来ては、実に熱心に臨書してゐた」ので、「僕も之に倣つて大分やつた」そうですが、「楷書の方は少し賞められる様になつたのだが、矢つ張りモデルを描く方が面白いので、草書や仮名は怠けて了つた」と綴っています。これらを読むと、図画が専門の学生達のやる気のない感じが伝わってきて、なんともやるせなくなってきます。ただし、ここから読み取れることは、岡田起作は古典の臨書ではなく、自分の肉筆の手本を習わせていたということです。
 それに対し、天来は何をどのように教えていたのでしょうか。奥山錦洞という人の教育史の本には、「古法帖による漢字の学習」をおこなっていたとあります。これ以上の内容は他にあまり知られていないのですが、実は草間ゆり子さんという方が、昭和52年度に千葉大学に卒業論文を提出なさっていて、その中で、図画師範科の卒業生68人に対してアンケートを取られています。これがとても貴重な内容ですので、今回はこのアンケート結果を拝読し、天来の授業内容に関するものを簡単にまとめさせていただきました。

・図20

このアンケートでは、まず、天来が使った教科書について質問がなされています。それをみますと、さきほど触れた『昭代法帖』を中心に使用しながら、王羲之、欧陽詢、?遂良、顔真卿、孫過庭、空海、嵯峨天皇などの楷書、行書、草書の古典の臨書をおこなっていたことがわかります。場合によっては学生が書きたい古典を自分で選ぶことができたそうです。
 天来は、自分の書を手本とすることは一度もなく、古典を臨書することを教えており、臨書では「字形」よりも「筆勢」や「筆意」に重点を置いていたようです。法帖をみながら半紙6文字程度で練習させて、天来は今でいう机間支援をしながら、学生の席に座って1人ずつ朱墨で添削したそうです。なお、学生としては、書家として有名な天来の墨の手本が欲しくて、添削用の朱墨を隠すこともあった、というエピソードが残されています。 他に、さきほどの『書道鑑識要覧』を使用しながら、書道史の知識とその鑑賞も教えていました。この授業に対する学生の反響としては、やはり「練習法が全く珍しくて、驚き」であったといいます。
また、「習字」の免許を与えるにあたり、最後には鑑識試験――誰による何の古典かを当てる試験をおこなう年もあったそうです。また、小論文を課した年もあり、「書道は芸術か否か」をそのテーマにしたこともありました。その小論文では、本当の話かどうかはわかりませんが、23人中3人が「芸術に非ず」と書き、免許が与えられなかったというエピソードも残されています。天来は授業中にいつも書の芸術性を説いていたそうです。
 また、天来は学生達ととても親しくしていたようで、学生全員が鎌倉の自宅に招かれることもあったそうです。アンケートには、天来の人柄に関する声も寄せられており、温厚、寛容、人格者、豪放、磊落、天真爛漫、熱心、真摯などの評価がありました。外見に関しては、白鬚が印象的、いつも和装だが時々中国服であった、というようなことも書かれています。また、冗談好きでいつも冗談を言って呵々と笑われるのでつられて笑ってしまう、という声や、お酒好きで授業中にお酒の香りが少しすることもあったそうですが、それを包み隠さずに言っていた、という声もありました。天来のおおらかさが伝わってくる内容です。また、一緒に働いていた小琴とは夫婦円満であったという声も何人か寄せていました。
 以上のように、天来はやはり東京美術学校においても古典の臨書を新しく取り入れていたことがわかりました。今でいう学習指導要領において、臨書が明確に盛り込まれたのは昭和18年になりますので、それを考えると、天来の授業はかなり先鋭的であったといえると思います。

4 後代への継承

最後に、このような天来の教育的業績、臨書の普及は、後の世代にもきちんと受け継がれたという点も注目したいところです。 まず、教育界の要職の継承という観点からみると、まず「文検」委員に関しては、尾上柴舟や、鳴鶴門下の丹羽海鶴と鈴木翠軒、丹羽門下の田代秋鶴が引き継ぎ、臨書や書道史に関する試験問題は引き続き出題されていきました。
 また、東京高等師範学校の講師も、同じく丹羽海鶴と田代秋鶴が引き継ぎ、2人は書学院の本を教科書として使いながら臨書を教えていたことが知られます。

左・尾上柴舟 右・石橋犀水・図21 左・尾上柴舟 右・石橋犀水

また、東京美術学校に関しては、さきほど触れたように石橋犀水と尾上柴舟が務めます。この2人も、臨書と中国書道史、日本書道史をそれぞれ教えていたことがわかっています。
 なお、東京美術学校、芸大での「習字」「書道」の授業を受け持ったのは、この2人が最後であったとさきほど申し上げましたが、戦後に芸大に書道科を設けようとする動きが実はあったことも最後に付け加えておきます。東京美術学校から芸大へは昭和24年に変わるのですが、書家達はその前年、国会へ「新制大学に書道科設置に関する請願」を出していたことがわかりました。ここでは、新しく大学へと生まれ変わる東京美術学校と高等師範学校に、書道科を設置してほしいと、はっきり要求しています。ただし、この年の国会会議録を調査してみると、芸大ではなく教育系大学に設置されるかもしれないという発言が残されています。この請願は一応採択になりますが、結局、芸大には書道科は設けられませんでした。
 それでも書家達は翌年にもう一度請願を出しています。しかし、ここでも国会会議録をみると、芸大の内部から書道科を設けるという声が出ないのでそのままになっている、と記録されています。
 また、この動きと合わせて、東京美術学校、芸大に勤めていた尾上と石橋は、当時校長であった上野直昭に書道科を設けてほしいと直談判していたことも、上野の日記からわかります。その後も、2人は少なくとも昭和28年までは活動を続けていて、芸大の東洋美術史の教員などの賛意を得つつ模索していたことが、石橋の手紙より知られています。
 結局、なぜ教育系大学に書道科が設けられたのかというと、昭和23年に高等学校に芸能科書道が誕生したため、その教員を養成する必要が出てきたからといわれています。昭和24年には千葉大学、東京学芸大学、新潟大学、広島大学の教育系の学部に書道科が設けられたため、芸大の書道科設立は叶えられなかったのかもしれません。

5 まとめ
・図22

さて、話を天来に戻し、本日お話した天来の業績を3点にまとめます。天来を書家、制作者としてだけではなく、教育者としての業績に注目しますと、まず1点目は臨書という学書法を全国的に広めたことです。この図のように、臨書を重視する理念を持ちながら、「文検」の改革と、古典図版の出版をおこない、かつ、学校教育で臨書の実践をおこなうことで、理念・制度・実践のリンクを築きながら、具体的に臨書を普及させたのではないかと考えます。「文検」の合格者や、東京師範学校、東京美術学校の卒業生達が、その理念を継承して、現場で実践をおこなっていくサイクルを作ったといえます。
 また2点目に、今回焦点を当てた、天来の晩年の東京美術学校での授業は、「文検」での臨書の普及や、出版物の盛行があったからこそ説得力や効果を得たものであり、天来の教育的業績を象徴するものであったといえるかと思います。
最後に、この臨書の普及と実践という業績は、当時としては画期的であり、後の世代へ、 そして現代へと継承されたものです。天来の書家としての業績もさることながら、この教育的業績という点においても、天来が「現代書道の父」と呼ばれる由縁といえるのではないかということです。
 今回の天来没後80年の機会に、改めて天来の教育的業績が見直されても良いのではないかと思います。以上で、お話を終わりにしたいと思います。ご清聴いただき、本当にありがとうございました。


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