天来書院

天来の会書展


書の原点に還る

天来門流の書業

比田井天来は現代書道の黎明期にあって、「書は芸術である」と主張しました。この主張の基盤にあるのは「古典の臨書」です。先生の手本を学んでそっくりに書けるようになることが書の目的ではない。そうではなく、名品とされる古典をすべて学び、その表現を自らのものとして、それまでになかった独自の書を書くことが目的だと説いたのです。天来自身この方法を実践し、新たな書芸術の世界を拓きました。
 天来はまた、門下に手本を与えませんでした。それどころか、門下の作品が、自らの作品に似ることを嫌ったのです。66歳のとき、自ら主催する大日本書道院展で、自分に似た作品を賞からはずすほどの徹底ぶりでした。門下は天来の教えを受け、上田桑鳩が中心になって「書道芸術社」を結成し、新しい書表現に果敢に挑んでいきました。

天来先生碑除幕式の記念写真・天来先生碑除幕式の記念写真

天来が他界した翌年の昭和15年(1940)、北鎌倉建長寺に比田井天来の頌徳碑が建立されました。文字を書いたのは上田桑鳩、建設委員長武田秀雄、副委員長は田代秋鶴と鈴木翠軒でした。除幕式の記念写真には、天来・小琴の子どもたちや直接の門下のほか、西脇呉石や山口蘭渓ら日下部鳴鶴系の作家の顔も見えます。
 やがて戦争が勃発し、太平洋戦争の敗戦を経て、日本の書の中に、従来の形式とは異なった新しい動きが生まれます。その中枢を担ったのが比田井天来の門下でした。

上田桑鳩(1899〜1968)は天来門のリーダー的存在でした。日展には改組第一回展から審査員として迎えられましたが、昭和26年(1951)に出品した作品「愛」が伝統派審査員の物議をかもし、昭和30年に日展を脱退します。在野の旗手としての精神を持ち続けた作家です。作品はさまざまの形式にわたっていますが、文字が原点となっているものがほとんどです。晩年近くなると、岩絵の具を使った色鮮やかな作品が増えました。書の理論面でも大きな業績を残しました。桑鳩が創設した「奎星会」では、今も前衛的なさまざまの試みが行われています。

金子鷗亭(1906〜2001)は、中国の文学である漢詩や漢文ではなく、現代日本の詩やことばを使って作品にすべきだと主張しました。昭和8年(1933)に「新調和体論」を発表しています。戦後、飯島春敬らといちはやく「日本書道美術院」を結成し、また「毎日書道展」は、鷗亭の尽力によって実現したものです。鷗亭は「創玄書道会」を創設しました。1987年文化功労者、1990年に文化勲章を授章しました。

桑原翠邦(1906〜1995)は、天来の命により中国へわたり、中国人らに書を教えました。天来は、現代中国より日本の書のほうが優れていると考えていたからです。天来没後帰国し、天来がしたように、日本全国を行脚して正しい書を説きました。同門の作家が新しい表現を追求する中、翠邦は古典を書の本道と考え、「臨書」を作品にすることで新境地を拓きました。創設した「書宗院」では、一貫して臨書による展覧会が開かれています。赤坂御所書道ご進講を契機に書壇の表舞台を退き、孤高の人生を送りました。

手島右卿(1901〜1987)は「少字数書(象書)」という分野を開拓しました。一字、二字といった少ない字数を素材とし、現代空間にマッチした新たな表現をめざしたのです。同時に、表現は文字の意味をも内包し、象徴性をもつという意味で「象書」と呼びました。濃墨作品と並び、にじみの美しい淡墨作品が印象的です。「独立書人団」を創設し、右卿が追求した表現がさらに深められています。1982年に文化功労者顕彰を受けました。

大沢雅休(1890〜1953)は昭和24年(1949)に棟方志功と出会い、合作を多く発表した異色の作家です。俳句・短歌・詩を書き、幅広い文芸活動を行いました。昭和28年(1953)、急逝しましたが、遺作「黒嶽黒谿」は、日展からの委嘱出品だったにもかかわらず、陳列を拒否されました。力強く暖かい作風です。「平原社」を創設しました。

前の五人より世代の若い石田栖湖(1910〜1997)は、天来門の麒麟児と呼ばれました。しっかりとした骨力の上に、豊かな滋味と清らかな風韻をたたえた作品は、大きな評判を呼びました。北海道立美術館設立時に事務局長に推され、困難な時期に人々の中心となって活躍しました。

天来の次男、比田井南谷(1912〜1999)は、昭和20年(1945)に、世界初の「文字を書かない書」である「心線作品第一・電のヴァリエーション」を書き、翌年発表、新たな書を模索していた作家たちから注目されました。彼は書表現の根幹は書かれた文字の意味ではなく、筆による線の多彩さであると考え、1950年代と60年代はアメリカで個展や講演などの活動をしました。欧米の抽象表現主義の画家たちにも影響を与えました。ニューヨーク近代美術館はじめ、著名コレクターが作品を買い上げています。

ほかに、天来最晩年に指導を受けた作家として、石橋犀水大森萬里岡部蒼風沖六鵬桑原江南武士桑風徳野大空村上北海らがいます。

比田井天来の妻、小琴(1885〜1987)は、かな作家として活躍しました。7人の子どもを育てながら、古筆の研究や和歌の勉強に努め、作品集や歌集を発行し、文部省教科書編集委員となって高等小学校の教科書を執筆するなどの活躍をしました。かなだけでなく、書の古典を幅広く学び、素直で強い線による正健な作品を残しています。天来没後は天来に代わって講習会で指導し、また多くの門下を育てました。
 小琴は夫より13歳年下でしたから、常に夫を師と仰ぎ、ひたむきに学びました。55歳のときに天来は他界しますが、この頃から小琴の書は変化していきます。若い頃のおおらかさや力強さが内にひそみ、その代わりにしぶさの加わったプラチナのような個性ある書があらわれます。さらに最晩年には、筆草を使って、華やかさとは逆の、遅渋とも表現される独特のかな書道の世界を作り上げました。

門下には、天野翠琴堀桂琴原田春琴比田井小葩を初めとする女流作家を生みました。彼女らは書壇の中心にあって、古典に根ざし、流行に左右されない、独特の強さ、健康さをもつ作品を発表しました。

これら直門の方々はすでに他界しました。新しい書の世界を作り出すために、大きなエネルギーを必要とした時代は過ぎましたが、次の世代の作家たちによって、さらなる追求が続けられています。


平成18年(2006)、長野県佐久市協和の天来生家の裏山に「天来自然公園」が完成しました。ここには天来・小琴をはじめとする石碑が9基建っています。

天来自然公園の石碑 比田井天来・小琴・天来自然公園の石碑 比田井天来・小琴
左から石田栖湖・手島右卿・上田桑鳩・左から石田栖湖・手島右卿・上田桑鳩
桑原翠邦・比田井南谷・金子鷗亭・大澤雅休・桑原翠邦・比田井南谷・金子鷗亭・大澤雅休

天来・小琴を中心にして門流たちが集い、書について語り合う風景が彷彿と浮かび上がるようです。

天来の会書展:天来書院