書芸の妙は、
筆力沈着にして
飛動の意あり。
気象雄大にして
変化極まりなく、
しかも
一家の体貌ありて、
古法に違わざるを尊ぶ。
比田井天来
二十世紀初頭、「古典臨書」を学書の基盤におき、「書は芸術である」と主張した比田井天来は、50歳代まで弟子をとりませんでした。しかし60歳に近づいた頃から、地方へ遊歴した折に優秀な若者たちを呼び寄せるようになります。天来が主宰する「書学院」へ集った若者たちに対して、天来は手本を与えず、自分に似た作品を書くことを禁じました。彼らは天来のもとで、書の本質について、あるいは現代に生きる書について、日夜熱い議論をたたかわせました。門下の上田桑鳩が中心となって結成された「書道芸術社」では、従来の慣習にとらわれない新しい書表現が模索され、果敢な挑戦がなされるようになりますが、天来は何も言わず、これを見守ったといいます。ここで萌芽した新しい動きは、戦後、「前衛書」「近代詩文書」「少字数書」として花開くことになるのです。
昭和37年(1962)、天来の23回忌にあわせて、日本橋髙島屋で「天来遺業展」が開催されました。天来・小琴の門流の作品も展示され、図録は「書学院同人会編」となっています。昭和44年(1969)には同人17名が長野県望月町(現在は佐久市)の天来生家を訪れ、墓参をし、寄せ書きを残しています。この頃望月町では、天来と小琴の作品を収蔵・展示する美術館の構想が始まっており(後の佐久市立天来記念館)、これも書学院同人を刺激したことでしょう。
昭和47年(1972)日本橋三越で「天来生誕百年展」が開催されました。ここでも天来と小琴の門流展が併催され、図録には「書学院同人会編集」と記されています。昭和51年(1976)に書学院同人を中心にした懇親会が開催され、翌年、天来の別号が「大樸・大璞」であることから名付けられた「大璞会」が誕生します。そして昭和55年(1980)、第一回大璞会書展開催、大璞会書展は合計4回開催されました。
「天来生誕百年展」の図録には、書学院同人による座談会が載っています。
われわれの書というものはほとんど(天来)先生によってできたもので、先生が苦労して打樹てられたものをそのまま受け継いでいるにすぎないといえる。ところが現在書くものは形からみれば先生のと違っている。根から違っているように思っているものもあるかもしれないけれども、それは感覚だけの問題です。先生がなければ絶対今日の自分はあり得ないんで、理念として発するところは一つであると信じているわけです。(手島右卿)
天来門下の活動はそれぞれ個性的で異なって見えるかもしれないが、その根幹は一つ、すなわち天来である。そう信じる書学院同人たちの信念は、やがてそれぞれの門下にも浸透していきました。
平成6年(1977)、「大璞会」を発展させ、天来門流以外でも、天来の思想・書業に賛同する方なら誰でも参加できるより自由な会として「天来の会」が発足しました。最初の活動は、天来書「信濃川治水紀功碑」の出版です。平成9年には「現代書の父 比田井天来とその展開」展を主催し、比田井天来書「瀧本・栗林二翁頌徳碑」を発行します。平成18年(2006)には「天来自然公園」(長野県佐久市)建設に協力し、その後、天来生誕地での天来・小琴顕彰につとめ、門流展を四回開催しました。