春日井市道風記念館で特別展「比田井南谷〜線の芸術」が開催されます。
注目したいのは、ここに、最初の前衛書「電のヴァリエーション」(1945年・千葉市美術館蔵)、「電第二」(1951年・京都国立近代美術館蔵)をはじめ、伝説の作品が展示されることです。
そこで今回は、「電のヴァリエーション」が制作された背景を、南谷の回想を交えつつ、紹介したいと思います。
イタリックの部分は「心線(墨象)作品の生まれるまで(比田井南谷)」(書道講座7巻・前衛書道 二玄社刊)からの引用です。
ウェブ上でも読みやすいように、改行を増やしました。
比田井南谷は、比田井天来・小琴の次男として、1912年に生まれました。
書の壁の中に私は育ったが、少年時代から音楽や絵画に、又科学に、幻思の花を咲かせていた。
しかし、それが実ったのはやはり書であった。
文字を離れた自由な書、父天来のいう「象」であった。
父母の理解ある開放主義のもとで自由にのびのびと育った南谷は、1934年、東京高等工芸学校を卒業し、参謀本部陸地測量部に就職しました。
上の写真に見える左の建物は陸地測量部、右は参謀本部(陸軍省)です。
1938年、南谷は両親の勧めもあり、長野県南佐久の木内きく子と婚約し、1939年1月1日、婚姻届を提出しました。
1月4日に父、天来が他界します。
しかし3月には長男、健が生まれ、家族3人の幸せな生活が始まりました。
上は1940年5月5日、北鎌倉建長寺に建立された「比田井天来碑」の除幕式です。
最前列中央にいるのは南谷と妻きく子、抱かれているのは長男、健です。
健は1歳3ヶ月でしたが、列席者に見守られて碑の除幕という大役を果たしました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
1937年に始まった日中戦争が激しさを増し、1939年には第二次世界大戦が勃発したのです。
南谷は陸地測量部教育部(修技部)教官として、部下の指導にあたっていましたが、同僚の教官や教え子たちが相次いで戦地におもむき、戦場から軍事郵便なども届くようになりました。
1941年に真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発し、日本は英米と戦争状態に入ります。
戦争はいよいよ苛烈を極め、1944年後半からは空襲が始まりました。
1945年3月の東京大空襲で東京下町が被災し、さらに5月25日の山の手大空襲で国会議事堂周辺や東京駅、皇居も被災し、三宅坂の陸地測量部や陸軍省も炎上したのです。
その5月、南谷は長野県南安曇郡三田村田多井に疎開しました。
同行した妻、きく子は重い病にかかっており、息子、健は長野県南佐久の菊子の実家に預けられました。
1945年8月、日本の無条件降伏によって太平洋戦争が終焉しました。
疎開先の三田村で、南谷は菊子の看病をしながら、書とは何か、自分はどんな書を書きたいのか、煩悶する日々を送っていたのです。
丁度十年前のことである。
あの終戦がやはりこの新しい誕生に作用を及ぼしたのかもしれない。
しかし心の中のモチーフは容易に形にならない。
疎開先の炬燵の中で奇怪な線や点を書いては反故の山をつくり、人が来ると急いでしまい込むという自信のなさに私は悩んでいた。
それがどの位続いたか、突然頭に浮かぶものがあった。
それは父の「行き詰まったら古に還れ」という言葉である。
古文だ。
先ず古文に還ろう。
そこで古籀彙編を開いたとき「電」の字が異様に私の注意を惹き、これを夢中で展開させて心線作品第一「電のヴァリエーション」となったのである。
これは今から見れば幼稚なものである。
でもこのデッサンが出来た時は、それこそ天に昇る思いであった。
現新制作会員の角氏の勧めで昭和21年に、作品第二及び第三と共に彼の洋画グループ展に心線作品と題して出品した。
まだ書道展に出す勇気がなく、この方へは副産物として出来た古文の作品を3点ほど出品していた。
この心線作品では気狂扱いを覚悟していたが、書学院同人手島右卿、石橋犀水、故大沢雅休等数氏の理解と激励に大いに力附けられた。
2000年9月20日の読売新聞夕刊で、美術家、彦坂尚嘉氏は次のように述べています。
被爆と大日本帝国の崩壊という「負」を、比田井南谷は、被害者意識のトラウマとしてでなく、伝統的な背後霊からの《解放》として、東洋美術の基本である余白の世界にはじけるような喜びをもって踊り出させている。
敗戦は、それまでつちかってきた日本の文化に大きな影を落としました。
その中で「電のヴァリエーション」は、書の本質を見据え、新たな力を得て飛翔するための記念すべき作品だといえるのではないでしょうか。
次回は、電のヴァリエーションに対する手島右卿、大沢雅休の手紙をご紹介します。
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「電のヴァリエーション」などの発想の源泉となった古代文字についてはこちら。
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