比田井南谷ホームページを作ったのは今から3年前です。

加島美術で開催された「比田井南谷展 NANKOKU」初日にあわせました。

 

比田井南谷

 

南谷のホームページは、生涯や代表作、作品を所蔵する美術館などを紹介するもので、これを見ていただくと、作家としての全体像がわかるようになっています。

固定ページのほかに、「レポート」と題して、南谷の活動やその背景を順次記録してきました。

 

日本語版に続いて、英語版ホームページを作成しましたが、「南谷レポート」だけは翻訳が遅れていました。

 

最近、南谷に関する英語の論文の参考資料として、南谷ホームページがとりあげられることが増えましたので、早急にレポートも翻訳する必要を感じ、順次アップしています。

 

 

カッパの国 日本語のページ 英語のページ

比田井南谷

書道を紹介するため、私は一昨年の暮れに渡米、一年半ニューヨークやサンフランシスコに滞在した。アメリカ人のためにも、私のためにも、非常に有益であったのは、直接手をとって彼らに「書」を指導し体験させ、そして何ものかを創造させたことであった。

 

 

New York Times 日本語のページ 英語のページ

1965年1月、ニューヨークのミー・チュー画廊での個展に際して、ニューヨーク・タイムズ一面に、エリーゼ・グリリによる紹介記事が掲載され、大きな反響を呼びました。

 

 

The Sound of Japan 日本語のページ 英語のページ

武満徹

“The Sounds of Japan” というタイトルのレコードジャケットに、南谷の作品が使われています。

収録されているのは武満 徹の「エクリプス」、間宮 芳生の「四面の筝(琴)のための音楽」、松本 雅夫の「木と石の詩」です。

 

 

南谷アメリカへ行く(1) 日本語のページ 英語のページ

昭和34年の暮れ、カリフォルニア大学の彫刻の先生夫妻に呼ばれ、私は書道を米国に紹介するため渡米した。

わが愛弟子たちは主として指導的立場にある教授や芸術家であったので、理解の早かった点もあるが、その良さは子供の作品に見られるような稚拙味でないことは、帰国後これらを見たこちらの専門書家の等しく認めるところであった。もちろん彼らに文字の意味を教えるひまはなかったので、時には手本を逆さに見て習うというような情景もあったが、それだけに書道を線芸術として純粋に理解させることができた。私の目的は、ただ彼らに東洋趣味を植えつけることではなくて、三千年の歴史を持つ独特な抽象芸術が米国の芸術心に正しく受け入れられるか否かを試みることであったので、これで満足であった。

 

 

南谷アメリカへ行く(2) 日本語のページ 英語のページ

拓本展

1960年5月末から、南谷はデヴィッド・コール・ギャラリーで「個展および中国・日本の数十種の拓本展」を開催した。特に、「拓本展」は大きな評判を呼び、サンフランシスコ地元新聞だけでなくニューヨークの新聞等にも紹介記事が載った。

 

 

ニューヨーク ニューヨーク(1) 日本語のページ 英語のページ

1962年11月~1963年1月に開かれたニューヨーク近代美術館(MoMA)の「最近の収蔵品:絵画および彫刻展」に「作品60-B・60-C・60-D」の3点が展示された。この展覧会には、ジョルジュ・ブラック、セザンヌ「モン・サン・ヴィクトワール(1900-06)」、サム・フランシス、マティス「音楽(1907)」、ミロ、ヘンリー・ムーア、アド・ラインハルトなどの著名芸術家の作品が共に展示された。

 

 

ニューヨーク ニューヨーク(2) 日本語のページ 英語のページ

2回目の講演は11月3日、ペンシルベニア州ベスへレムのリーハイ大学(Lehigh University)(注3)で夕食後の午後8時から行った。聴衆は教員や学生だけでなく、全市民に放送で呼びかけたので美術愛好家も多く集まった。講演は、ミーチュウ画廊のオーヤングと南谷が登壇し、聴衆との質疑応答から始まった。突拍子もない質問や書についての誤った先入観が披歴された後、渡米前に南谷が撮りためていた書家(上田桑鳩・手島右卿・桑原翠邦・西川寧・熊谷恒子等)の書いている8ミリフィルム(天来書院発行のDVD『書・二十世紀の巨匠たち』に収録)やスライドを使って、中国と日本の正確な書道史を説明した。講演は2時間で終了したが、熱心な聴衆は残って深夜まで質問を重ねた。3日から5日までの講演は大成功で、美術学科主任教授のフランシス・クヮーク(Francis Quirk)からの感謝の手紙を受け取った。

 

 

1957(昭和32)年 前衛書作家協会の創立(1) 日本語のページ 英語のページ

前衛書作家協会趣意書 昭和32年5月

(前略)このような内的、外的事情にかんがみ、近来相互間に何らかの連絡機関を設けて、今までの孤立分裂状態に新しい関係を実現すべしとの要望が高まって来ておりますので、われわれ一同相はかり、ここに別紙規約(案)によって相互の連絡と利益擁護を主目的とし、かつ前衛運動の更に活発な展開を促進するための「日本前衛書作家協会」(仮設)の創立を企図した次第であります。

発起人 井上有一、岡部蒼風、小川瓦木、香川春蘭、小林竜峰、武士桑風、中島邑水、萩原冬珉、比田井南谷、森田子龍

 

 

1957(昭和32)年 前衛書作家協会の創立(2) 日本語のページ 英語のページ

前衛書作家協会

戦後10年以上を経て、前衛書が活動の場を広げ、社会的にも広く認知される、さらなる発展を期するようになった。しかし、前衛書(墨象)をめぐる書道界や芸術界の反応は厳しいものがあった。

 

書道界騒動渦中の人 豊道春海 氏「墨象は書といえぬ 前衛書道に文句なし」

前衛というのはちっともかまわないが、ただその一部の墨象は困るね。書道はあくまで文字を美化したものだから、文字を無視した、墨象は書といわずにやってもらえば文句などいわないよ。第一、私に人の自由を束縛する権利なんかありゃしないしよっぽどガンコおやじだと思われているらしいなハッハッハ。

 

書よりも絵に近い前衛書道 柳 亮(美術評論家)

前衛書道の現状をみると、一般に書より絵に近い感じでどうもそこのところに疑問がある。絵画的とみられる理由は、表象の手段を線よりも面や点にもとめている傾きがあり、勢いムーヴマンより、フォルムを重くみているところがある。つまり形が主になっており、結果として装飾的なものに堕している。それでは運筆に自己表現のすべてを賭けている書や精神からは遠い。前衛書道の作家たちは、むしろ形象からの離脱を目ざして出発したはずなのに今や却って、ミイラ取りがミイラになりつつあるように思われる。

 

 

以上、南谷レポートを順次翻訳していることと、それぞれの内容をご紹介しました。

前衛書道の黎明期には、今だから見えてくるいろいろなファクターが隠されています。

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