10月15日は比田井南谷の命日です。

南谷はあまり文章を残していないのですが、対談の中で、自らの作品や活動について語っています。

そこで、1981年5月に発行された『比田井南谷臨多胡碑・三十帖策子』(「古碑帖臨書精選第2期第13巻」日貿出版社)中の、「金田石城・比田井南谷対談」から抜粋し、二回に分けてご紹介したいと思います。

 

比田井南谷は比田井天来の次男で、1945年に最初の前衛書「心線作品第一・電のヴァリエーション」を発表し、書道界の注目を集めました。

作家活動のみならず、天来が創設した書学院を継承し、資料の管理や古碑帖の出版を行い、また「中国書道史事典」などの著書があります。

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第一回では、自分はなぜ非文字の作品を書いたのか、そして作品制作はどのように展開したかが語られています。

 

 

 

石城

このたび20何年かぶりで毎日書道展の審査員ということなのですが、まあ毎日展の場合は運営上の問題から門人の多い方が出場回数も多いということで、しかし先生ぐらいになれば無派閥であっても毎年出られていいはずなんですけれど。

 

南谷

いやあ、私が出ると調子が狂っちゃうわけですよ。

というのはこちら門人がいませんからね。

毎日展の初期の頃はよく活動しましたけれども。

 

石城

今まで何回ぐらい出られましたか。

 

南谷

何回ぐらいでしょうか。

前衛書展が毎日書道展からわかれた頃までですから、10回ぐらいのものでしょうね。

それから後は、アメリカへ出たり入ったりするわけで、でも毎日展にはできるだけ出品しようというつもりでずっと出してはいたんですが、そのうちに出版の方が忙しくなって一年おきになり、それが一年おきということも忘れちゃって。

それで宇野雪村さんから電話がきましてね、「君出してないの、まずいぞ。2年に1度は出さないと縁が切れちゃうんで」なんていうことで出したこともありました。

 

石城

ああそうですか。だんだん作家意識が薄れて、出版に専念したということですね。

 

南谷

もうそろそろ出版を切り上げて、跡継ぎもできましたのでね、娘に譲って、隠居したいと。

隠居するということは、つまり作品に戻るということでね(笑)

 

石城

原点に帰るというか、やはり書を制作する方がいいというお気持ちになられたんでしょうか(笑)。

 

南谷

そういうことを期待しているんですがね。

 

石城

ところで法帖きちがいだというお話ですが、そういう伝統をもっとも重んじられる先生がどうしてあのような前衛になられたのか、その辺がなかなか興味深いところなので、その動機などを少しお話しいただけませんか。

 

南谷

そうですね。

私はとにかく文字を書こうが書くまいが同じ、っていうとちょっとおかしいですが、まあ両方とも同じ気持ちの活動なわけですよね。

それでたまたま昭和20年に始めた心線作品という一つの試みがずっと続いていたものですから、結局その自分の新しく研究していたものを主に発表するということでそうなったにすぎないのであって、本当は文字性のものも発表したいと思っているんです。

ですから、文字を書かない中にも書の芸術性というものがどういうふうに出るかということで、今だに苦労しているわけですよ。

 

石城

なるほど。まあ一般的には、文字を書かないものが「墨象」なり「前衛」だという割り切り方、見方がありますね。

しかし先生の中では、文字を書いても書かなくてもまず書の要素として容認されているということですが、大雑把にいってどんな条件が満たされればいいんでしょうか。

 

南谷

まあ、線と形、線の動きを含めたね。

その形というのは、文字の発生以来洗練されてきた文字構成の美しさ、それがたとえ文字を書かなくてもその美しさを純粋に引き出してこようということですね。

それから線の方は、筆意というものが人の心に訴えるということですから、これも必ずしも文字を書かなくてもできるだろうという発想から、この実験を始めたわけなんですけれども。

 

   〈中略〉

 

石城

ご自分の初期の作品というのは、今振り返られてどんな作品だったとお考えですか。

 

南谷

私の経過を見ていただくには、近く発行される予定の作品集をご覧いただくのが一番いいんですが、一番最初の作品というのは「電のヴァリエーション」といって、電気の「電」という字の古文が素材なんですがね。ですからこの時代には古文を随分勉強しました。

 

電のヴァリエーション 1945年 千葉市美術館蔵

 

 

石城

ああ、初期にですね。そういえば、いつか金子鷗亭先生のところで、小品でしたけど、先生の古文の作品を拝見したことがありましたよ。

 

南谷

ああ、あれね。古文の臨書などもその頃には時々発表したんですが、その後「飛白」なんかをやってみたりね。

油絵の具を使った作品などもやりましたけど、これは別に絵の真似をしたわけじゃなくてね、毎日展の初期の頃に誰のだったか油絵具を使った作品があって、その時ある洋画の評論家と話をしたところ、絵と書の違いは使う材料の違いだという話になったんですね。

墨と紙を使えば書だし、油絵具でキャンバスに書けば絵だと。

私はそんなバカなことはないって反発したんですがね、よしそれじゃ油絵具で書いて書的な表現ができるかどうかやってやろう、というのがその動機だったんです。

ですから、この時代はキャンバスの作品が多いんですよ。

 

作品22 キャンバスに油絵具 1955年 千葉市美術館蔵

 

石城

なるほど、最初は文字性のものからなんですね。

 

南谷

一番最初はね。そのうちに文字性がなくなってきましてね、書だなんていえないようなメチャクチャなこともやりました。

ですから初期の作品というのは、書的な要素より絵画的要素の方が多いんですね。

 

石城

それは、文字的というか書的なものから抜け出そうという意識が働いていてということですか。

 

南谷

そういことは全然ないんです。ただ何とかして新しい道を見出そうと、まあ自分の心の中でそれがまとまらないんですよね。

しかしこういう試行錯誤が一つの契機となって、古典を見る目もそういう意味で変わってきたということがいえます。

そして、書の芸術性というものがどういうものかということをいつも考えるようになりましたね。

 

石城

ははあ。

 

南谷

それからは空間というものを大事にしてきましたね。

そのしばらく前のものはいっぱいに書いてますよね。

それにキャンバスを使っている頃は、割合構築的なものが多くて絵画的ですね。

これをいつも抜け出そうとする気持ちがあったんですけど、それがまとまらないんです。

もう少し先になってから今度はまた墨に戻るんですがね、ただその時の墨というのは、筆意がより鮮明に表れるような墨の使い方というふうに変わってきましてね。

 

石城

ああ、なるほど。

 

南谷

紙も画仙紙の滲みなどの効果に頼ることをやめて、もっと正直に筆意の表れるものはないかというので鳥の子に変わったんです、滲まない紙にですね。

この後もいろいろ変化していくんですが、いつも行き詰まってるんですね、私は。

もうこれから先は何もできないという‥‥。

特に1961年の頃、いくらもがいてもどうしようもなくなったんですが、点と横画という単純なところへ戻ったら急に道が開けてきて、ずんずん面白いように作品ができてきたんです。

ですから、この時代の数年間は縦型の作品ばかり作っていました。

 

作品61−26 1961年

 

石城

なるほど。もう何もすることがないという、そこが前衛書の出発点なのではないでしょうか。

 

南谷

ですからいつも行き止まりになって、それでどうすることもできなくなったところから何か発見があるということの繰り返しですね。

苦しいですよ。

先刻お話のあった「一人よがり」の作品も、もがきの表われといえないこともない。

筆順というか脈絡っていうものをいかにして表わしていくか、ということを強く考えるようになったのもこの頃だったと思います。

文字の中に筆順があるように、自分の作品の中に、筆順というか心の動きを表わしたい。

いわゆる抽象絵画のようなものとは違った書の表現性、芸術性といったものを追求していったんです。

 

石城

先ほど空間のお話が出たんですが、もう少し空間についてのお考えをお伺いしたいと思いますが‥‥。

 

南谷

空間が光らなきゃだめなんだ、書かないところがね。

書かないところが一番大事なんで、昔からの書の傑作を見ればみんな輝いてますよ、空間が。

 

石城

書かないところが光る。書かないところに手間ひまかける。これは重要なことなんですが、なかなか思うようにはいきませんね。

 

南谷

筆力というものも、単に線質の問題だけではなくて、空間というものが非常に大きな力となってますね。

 

 

〈次回はアメリカでの活動に関する話題です〉

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