今から百年前、スペインかぜの大流行がありました。
世界人口の約三分の一に当たる五億人が感染し、2000万から4500万人の命が奪われたと言います。
日本に上陸したのは1918年9月末から10月初頭。
速水融著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)によると、大きな流行は2回です。
「前流行」は、1918年11月〜1919年6月、
「後流行」は、1919年12月〜1920年6月。
当時の内閣府の調査では、日本の内地の人口5500万人の中で、半分近い2380万人が感染し、45万人が死亡しました。
「ウィルス」の発見はもっと後なので、正体が知られていなかったとはいえ、すごい数です。
・・・・・ちょっと待ってくださいね。
最大規模の流行をみたのが1919年前半。
それって、大正8年。
なんですって? (急にあわてる)
大正8年、東京高等師範学校講師を辞した48歳の比田井天来は、「書学院」建設のために、大規模な遊歴を始めます。
4月末から松江に行き、5月初めに帰京。
5月から10月まで北海道全道をまわり、帰途弘前に滞在します。
(旅の詳細については、「知られざる比田井天来」に、田中鹿川氏の手記「天来の遊歴に同行する」がありますので、こちらをご覧ください。)
まずは、当時の弘前新聞の記事です。
スナップ写真も残っています。
上は大正8年(1919年)、弘前、報恩寺前。
左から高橋閑鶴氏、その右上は比田井勇太郎氏(後田中勇太郎)、中央が天来。
その右上は報恩寺のご住職。
その右は、今泉虚堂氏、現在北門書道会の主幹、今泉良郎さんのおじいさまです。
この時に弘前で書かれた作品が残されています。
横180センチという大きな紙に「清厳」二字。
なんという迫力でしょう!
そして、この旅の途中で書かれたのが、あの有名な「書学院建設趣旨書」です。
前にご紹介したかもしれませんが、この年の重要さを強調したいので、もう一回書きます。
原文は長いので、主要部分のみ。
文語体なので、現代語訳しました。
書は昔から東洋で尊重されている。
優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。
さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けることであろう。
一時期書道が衰退した理由は二つある。
一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。
もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。
書の大海とは歴代の古典名品である。
ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。
今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。
誰でも歴代大家の劇蹟を閲覧でき、自由に古典を選んで学べる研究所として書学院建設の急務を絶叫するものである。
上は、天来が書いた趣旨書に賛同した方々の署名です。
錚々たるお名前が見られます。
あ、あのお、スペイン風邪はどうしたの?
こんなとき、役に立つのが『近代書道の開拓者 比田井天来・小琴』(昭和43年・長野県佐久教育会発行)。
比田井天来と小琴の一年ごとの詳細な伝記が載っています。
しかも、出典は、実際の書翰や当時の雑誌などなので、信頼できます。
スペインかぜに言及している天来の書翰がありました。
此間帰村致候処、多忙の為伺兼候。
お園殿病気致され候様聞及、心配致居候。
此度の感冒は油断ならず候間、御大切に可成候。
小生方は軽々一巡致し、目下風の神は御出立に相成、今後は絶交可仕候。
大正八年二月二十六日 比田井鴻
「信州田島三郎氏宛書翰」
この間村へ帰りましたが、多忙のため伺えませんでした。
お園さんが病気をされたたと聞き、心配しております。
この度の感冒は油断なりませんので、お大切になさってください。
私どもは軽々と一巡して、今は風の神は行ってしまい、今後は絶交です。
スペインかぜは、当時は「流行性感冒」と言われていたそうですが。
「私どもは軽々と一巡して、今は風の神は行ってしまい、今後は絶交です」ですって?
全員軽く感染して、すでに回復したってこと?
天来は二年後、古典の全臨集「学書筌蹄」の刊行を開始します。
臨書だけではなく、古典解説と緻密な「字説」がつき、文字学の成果も遺憾なく発揮された労作です。
さてさて、100年前と異なり、私たちは情報化時代に生きています。
新型コロナウィルスが世界中で猛威をふるい、日々増えていく感染者。
テレビをはじめとするマスコミが伝えるおびただしい情報。
でも、これにふりまわされるわけにはいきません。
今できること、今しかできないこと。
貴重な一日一日を、大切に過ごしていきたいものです。