「天来の会書展」の会期中に開催された、柳田さやか先生による講演は、今までにない視野から天来の書道教育者としての一面を語る画期的な内容でした。準備中の「天来の会書展」特設サイトにアップする予定ですが、その前にブログでご紹介することにしました。

 

柳田さやか先生は、東京学芸大学の教育学部書道専攻をご卒業後、同大学院の修士課程を修了。昨年、筑波大学で博士号を取得。

美術館の学芸員を経て、現在、静岡大学などで講師をなさっています。

 

さやか先生の講演のタイトルは「比田井天来は東京美術学校で何を教えたか」。

今回は、30分の講演を二回に分けてご紹介します。

第一回は「天来と臨書」、そして天来による「文検」の試験問題の改革までです。

「文部省令」をはじめ、膨大な資料や論文を駆使したご研究の成果を、わかりやすく語ってくださいました。

 

 

 

はじめに 

ただいまご紹介にあずかりました柳田と申します。

本日は多くの方にお集まりいただき、本当にありがとうございます。

このような場でお話をさせていただくことを大変嬉しく思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

なお、講演中は、先生方の敬称を省略させていただきながらお話したく思います。

 

本日のテーマは、「天来は東京美術学校で何を教えたか」です。

この東京美術学校とは、現在の東京芸術大学――芸大のことで、ここで天来は晩年、書の授業をおこなっていました。

 

実は芸大にも書の授業があったということは、一般にはあまり知られていないかもしれません。

 

私がまだ書道科の学生であった頃、「教育系の大学に書道科はあるけれど、どうして芸大や美大には書道科がないのだろう?」と素朴な疑問を持ちました。

そこから、「書」と「美術」に関する私の研究が始まりましたので、今回、このようなテーマで講演を、とご依頼があったことに、ふしぎな縁を感じています。

 

さて、この「天来は東京美術学校で何を教えたか」という問いの答えについて、先に結論から申し上げますと、「臨書」ということになります。

これをお聞きになって拍子抜けされた方もいらっしゃるかもしれませんが、天来の時代においては、古典の臨書による授業はとても画期的なことでした。

現代においては、臨書は学書法として一般的ですが、この学書法を一般に広めた点こそが、まさに天来の業績といえます。

 

本日は、このような構成で、「現代書道の父」といわれる天来の教育的業績に注目し、天来が臨書という学書法の普及を具体的にどのように展開していったのかを探っていきたいと思います。

 

 

1 天来と臨書 

まずは、天来の臨書歴と、臨書に対する思いをみていきたいと思います。

 

天来は明治5年に長野県に生まれ、26歳で上京します。

 

こちらは、30歳で結婚した時の写真です。

右上の帽子をかぶった男性が天来で、中央の女性が奥さんで、仮名作家として知られるようになる比田井小琴です。

 

天来は、上京した頃から、日下部鳴鶴に師事します。

この頃の学書法というと、師匠の書風を学ぶことが一般的でしたが、鳴鶴は、自分の書風をまねるのではなく、古典を積極的に学ぶべきだと伝えたといいます。

 

なお、鳴鶴は下の写真のように、腕を大きくまわして肘をはる「廻腕法」で書いており、天来もそれに倣いましたが、後に、筆を傾けて書く「俯仰法」――「古法」を発見しています。

 

左・比田井天来 右・日下部鳴鶴

 

 

さて、鳴鶴も重視していた臨書ですが、臨書の例自体は古く、有名なところでは、光明皇后による王羲之の臨書――「楽毅論」が残されています。

また、藤原行成が書いたと伝えられる王羲之の臨書もあります。

 

左・光明皇后臨楽毅論 右・藤原行成臨王羲之尺牘

 

 

時代がくだって江戸時代には、鳴鶴が尊敬した貫名菘翁の臨書などが残されています。

 

貫名菘翁臨蘭亭序

 

菘翁は、中国から運ばれてきた法帖をたくさん集めた人として知られ、臨書も多く残しています。

そんな菘翁の影響を受け、鳴鶴も臨書を重視します。

 

日下部鳴鶴臨鄭羲下碑

 

例えばこの写真は、鳴鶴が当時流行させたといえる北魏の書の臨書です。

 

 

それでは、天来の学書はどうであったかというと、なんと、小学校に入学した頃から、碑版法帖を独学で習っていたそうです。

 

比田井天来臨蘭亭序

 

こちらの写真は、天来の若い頃の丁寧な臨書で、「蘭亭序」の全臨です。20歳頃には、漢字の五体すべてを書けたそうです。

 

 

その後――あとでも触れますが――『学書筌蹄』や『天来習作帖』といった、天来自身の臨書の本を出版していきます。ここでは、よく知られている古典の楷書、行書、草書、そして篆書、隷書の臨書をおこなっています。

 

比田井天来著『学書筌蹄』 左から臨十七帖・蘭亭序・雁塔聖教序

 

比田井天来著『天来習作帖』 左・臨礼器碑 右・始皇詔版

 

続けて、天来が臨書をどのように捉えていたかというと、「趣味とし又芸術として書を学ぶ者は、先生に就くのもよいが、先生の流儀に固着してしまつてはよくない。先生に就いてもその将来の手本とするものは古法帖及び古碑版でなければ大成することは出来ない」と述べています。

また、「古今の劇蹟を学び研究するといふことも、その目的はその芸術的精神を養ひ、またこの表現の方法を発見するといふことでなければならない」とも述べています。

ここからは、天来が書を芸術と捉え、その芸術性の表現を発見することなどを目的として、臨書を重視していたことが窺えます。

 

ただし、この頃、書家達の中には臨書を重視する人も増え始めていましたが、全国の書道愛好者がそうであったわけではありませんでした。

また、学校教育の「習字」や「書キ方」の授業はどうであったかというと、とにかく実用性が第一に求められていました。

例えば、「書キ方」の制定に携わった文部省の官僚――澤柳政太郎は、「書には両面あり、一は美術として、一は実用の技能としてなり」とした上で、「小学校に於て授くる所はもとより後者にあり」と明言しています。

 

この学校教育について、天来は、当時の「習字」教員は「学校へ行つてゐる時だけは、止むを得ず下手の教科書でも嫌々ながら用ひてゐるが、学力のある教員に限つて、自分の家ではその教科書などは、なるたけ目につかない所へ抛り込んで置くやうな人が多かつた。それは当時に於ける一般の気風であつた」と回想しています。

師の鳴鶴についても、「実用書などは読めさへすればよい位に思つてゐたので、学校の習字教育などのことには余り関心をもつていなかつた」としています。

その他の文献をみても、書道界が重視する書風と、学校教育がおこなっていた書風とでは溝があったようで、書家達が学校の「習字」をどうにかしようといった積極的な気運は育っていませんでした。

 

しかし、そのような時期、天来は教科書に古典を掲載し、学校教育においても臨書をおこなう重要性を説いており、その理念の展開として、臨書を普及させるための教育制度を整えていくことになります。

 

 

2 臨書の普及 

ここでは、天来による教育改革として、2つの制度に注目しました。

「文検」と出版です。

 

1つ目の「文検」とは、師範学校や中学校、高等女学校の教員になるための検定試験のことです。

まず、天来はこの「文検」の試験問題の改革をおこなっていくのです。

 

「文検」には習字科があり、習字科の合格は書家になるための登竜門のように当時考えられていたそうです。

というのも、美術や音楽は明治20年代にすでに専門の学校があり、美術史や音楽史が教えられ、教員になるための場が設けられていましたが、書にはそのような場がありませんでした。

そこで、全国の書道愛好者達が「文検」習字科を受験していました。

 

「文検」にはその試験問題を作る委員がいて、習字科は岡田起作という書家が務めていましたが、大正5年には天来が加わります。

 

天来は着任後すぐ、この試験問題の改革に取り掛かります。

それまでは、決められた語句を楷書、行書、草書で書くという実技問題が出されていましたが、天来はそこへ古典の問題を加えることにし、着任からわずか2年後の大正7年には試験問題が大きく変わったのです。

 

実際の試験問題を調べてみると、予備試験と本試験に分かれていて、予備試験では漢字は顔真卿、王羲之、孫過庭、仮名は和漢朗詠集の臨書が出されました。

本試験では口述試験があり、日本と中国の能書家の名前や、書体は何種類あるかが尋ねられたことがわかります。

 

このように突然、古典の試験問題が導入されましたので、全国の受験者達はとても驚いたようです。

当時の書道雑誌をみると、受験者に「骨董的な試験」と受け止められるなど、戸惑いがみられたと記されたりしています。

 

しかし、古典の問題は毎年出されたため、徐々に受け入れられていくようになります。

「文検」受験のための対策本が多く出版されるのですが、そこでは、古典の図版や書道史を説明するものが急激に増えました。

さきほど申し上げたように、「文検」は全国に受験者がいますので、古典学習が全国に普及していくツールとして、「文検」は最も効果的ではなかったかと思います。

後に、「文検」受験対策本において天来を評価する記述が出てきますし、天来門下の石橋犀水達や、天来自身も、「文検」によって古典学習が普及して良かったと述べています。

 

このように、「文検」の試験問題が変わったことで、古典を学習する需要や関心が急速に生まれるわけです。

そこで、天来はそれに応えるため、古典の図版を掲載した本を出版していくことにします。

 

昭代法帖

 

天来は、書の研究所として自ら作った書学院から3種の本を出版しています。

まず、昭和2年から刊行され始めた『昭代法帖』は、15冊セットの法帖で、このように細長い折帖の形で、手習いがしやすくなっています。

例えば王羲之、欧陽詢、顔真卿、空海、嵯峨天皇など、古典の中でも基本となるような作品が選ばれています。

 

書道鑑識要覧

 

また、昭和8年の『書道鑑識要覧』は、「要覧」というように、中国と日本の主要な書を少しずつ載せて一覧にしたものです。

「文検」受験者や学習者にとっては、これが一冊あれば便利!といった本です。

 

書道沿革一覧

 

この本よりもさらに詳しく、また学術的にも注目されるのが、大正15年の『書道沿革一覧』です。

「書道沿革」というのは書道史のことで、この時期によく使用されていた言葉です。

この『書道沿革一覧』は、「書道全集」の基礎を築いたともいえるもので、さまざまな図版によって書道史を眺望することができます。

特に再版では、朝鮮半島の書の図版も入っている点が画期的で、日中韓の書を通して見られるようになっています。

こちらの図版は、崔致遠という人の石碑で、朝鮮半島で人気のあった欧陽詢の書風のものです。

 

この他、さきほども触れましたが、天来自身による臨書の出版もなされています。

特に有名なのが『学書筌蹄』です。天来は、本来、古典の原本そのものを見て学ぶべきだと考えていますが、それを難しいと感じる初学者もいるため、このような臨書見本を示したということを序文で説明しています。

つまり、こういった種類の出版も、臨書という学書法の普及のためであると伝えているのです。

 

なお、このように古典の図版集を多く刊行した天来ですが、あわせて書道史の執筆もおこなっています。

明治38年に鳴鶴から頼まれ、三省堂の『日本百科大辞典』に書道史の説明を執筆したところから始まり、昭和初期には平凡社の『書道全集』や、雄山閣の『書道講座』のように、シリーズものとして有名な出版物の執筆に携わっています。

この時代は、このような出版物によって書道史というものが体系化され、普及していく頃です。

天来は、この書道史形成に携わった書家の一人であるといえます。

 

ここまでの流れを図で示しますと、このようになります。

天来の臨書を重視する理念は、教育に関わる制度へと作用し、特に「文検」と出版への働きかけによって、臨書という学書法が普及していったといえます。

 

 

次回はいよいよ東京美術学校(芸大の前身)での講義内容を紹介します。

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