東京国立博物館で「顔真卿―王羲之を超えた名筆」が開催されています。

王羲之を超えているかどうかはともかく(孫過庭先生が聞いたら激怒するに違いない)、「祭姪文稿」を見ることができると話題になっています。

 

顔真卿 祭姪文稿

比田井南谷著『中国書道史事典』には、明の盛時泰という人のことば「この書は天真爛漫で作意がない。これによって見れば、本当によい作品というものは、上手に書こうとしないで、しかも自然によいものになっているということがわかるであろう」を引用していますが、核心をついたことばだと思います。

 

上は顔真卿の三稿「祭姪文稿」「祭伯文稿」「争坐位文稿」。これらについて悪く言う人はいませんが、楷書となるとそうはいきません。同じ本から引用します。

 

古人の評

(a) 南唐(五代)の後主李煜は「顔は右軍(王羲之)の筋を得ているが、粗雑で気がきかない」と評している。

 

(b) 宋の欧陽脩は彼の人格、行動に対しても非常に尊敬をはらい、書に対しても「強くしっかりと、ゆるぎなく立っていて、古人のまねなどしていない」といっている(『集古録』)

 

c) 蘇軾は「古法を一変して新味を出した」といっている。この批評をさらに批評して、清の劉煕載は「この評は十分ではない。古法を変じて新意を出したのではなくて、むしろ古意を得たのだ」といっている(『芸概』第五巻「書概」)

 

d) 宋の米芾は「彼の書法の特徴は、挑踢という筆法を用いたことである。この筆法がはなはだ多く、あっさりと自然に書かれているという趣がない。後世の人たちの字を醜悪にした張本人である」という(『宝晋英光集』)。

 

誉める人もいますが、「粗雑で気がきかない」とか「後世の人たちの字を醜悪にした張本人」とか、ひどい言い方ですね。これは現代も同じで、好きな人と好きじゃない人に分かれるのではないかと思います。

 

右から「麻姑仙壇記」「顔氏家廟碑」「自書告身」。顔真卿は「一碑一面貌」と言われていますが、まさにそれぞれが異なった表現ですね。

 

一番左は『忠義堂帖』にある「裴将軍詩」で、いろいろな書体が交ざった「破体書」で書かれています。

 

上は「東方朔画賛」碑。中央は貫名菘翁の臨書で、川谷尚亭は「顔真卿の書の精神をこのように取ったものは、支那にもないであろう。沈着純古、我国一千年の書の汚濁を一掃している」と評しました。

左端は比田井天来の臨書(『天来習作帖』)です。

 

顔真卿展には、顔真卿の影響下にあるその後の書もたくさんたくさん出ていました。私が注目したいのが上の三点。

右は顔真卿の先生と言われる張旭の「肚痛帖」、中央は懐素の「千金帖」、一番左は楊凝式の「神仙起居法」。どれも『懐素千字文ほか草書と狂草』に載っていますので、興味のある方はそちらをご覧ください。

 

そしてそしてそして、今回の展覧会で私が感激したのは、

懐素の「自叙帖」を全文見ることができたこと。一ページずつ別れた書籍ではわからない全体を通じたリズムを、とことん楽しむことができました。(会場ではあまり注目されていなかったし)

上の写真、縮小しすぎてスマホでは見えないかもしれませんね。パソコンの大きい画面で見てください。それでも小さかったら、テキストシリーズをご覧ください。巻末に出ています。

 

ちなみに、祭姪文稿を臨書して作品にしたい方、『大きな条幅手本 顔真卿祭姪文稿・祭伯文稿・争坐位文稿』がおすすめです。

 

東京国立博物館の顔真卿展は、祭姪文稿を見るために行列するとか、入場制限だとかで、なんとなく行くのやめようかなあと思っていましたが、行ってよかった! みなさまもぜひどうぞ。金曜日と土曜日の夜がおすすめです。

書道