夏休みに輪島に帰省した際、先祖の足跡を辿る為に地元の図書館に籠もり、保管してあった各種の古文書※1を調べてきました。私から9世代前の先祖達の足跡を辿ることが出来ました。
※1:地元の神社、お寺、個人が保管していたものを郷土歴史研究家や大学が協力し編纂。

祖父や父から聞いていた先祖に関する内容(元々、輪島塗りの職人ではなく、素麺屋だったこと)が本当だったことの裏付けが出来たのと、古文書に残された先祖達の当時の取り組みや直筆の署名を見て感動!一瞬、200年遡り、先祖達に逢えたような気分になりました。

ご興味ある方は是非ご覧下さい。

先祖代々の墓には「縄屋 助左衛門 文政9年」と故人と没年が書かれています。西暦では1826年、約200年前のお墓です。その隣には「縄屋 勘右衛門」の墓が並んでいます。この2つのお墓が足跡を追う手掛かりになりました。助左衛門が兄、勘右衛門が弟です。父が子供の頃には実はもう一つ隣に墓があり(「縄屋嘉兵衛」と思われる)、三つの墓が台座の上に並んで立っていたようです。但し、もう一つの墓は子孫が戦前に隣り町に引っ越し、墓も移転したとのことです。

ご先祖にあたるのは「縄屋 助左衛門」。最初は、この「縄屋」が町名の下に書かれていたので、地区名なのか苗字なのかが分からずにいました。調べた結果、寛政時代(1790年代)、兄弟は細屋村(現在の輪島市三井町細屋地区)から輪島に出てきて、素麺屋をはじめます。その際に「縄屋」を名乗ったことが分かりました。

現在では素麺を束ねるのは紙ですが、当時は細い縄が使われていたようです。縄屋の名は素麺屋の家業であり、素麺を束ねる「縄」からきていました。

尚、当時の時代背景は以下の通りです。

加賀藩の初代当主:前田利家は輪島に対し「素麺の座」を廃し「十楽」(自由に取引きが出来る)とすることを布告。寺社が持っていた素麺製造・販売の独占組合を廃止する。都市産業の振興策として中世の遺物でもあった座を廃し、寺社の俗的な権勢を抑止する狙いもあったようです。
それにも拘らず、輪島に於いては特定の寺社の権勢が長らく続く。結局、その寺は藩から取り潰されてしまいました。彼らが輪島に出てきたのは正にそのタイミングでした。

当初、助左衛門は長男、勘右衛門は次男と思っていましたが、細屋村には彼等の兄:久右衛門が残っていたことも分かりました。ちなみに、「細谷」の苗字は2人の出身地からきています。村は細い谷が注いだ狭い三角州からなっています。丁度、その谷への入り口が先祖の出身地だと祖父に聞きました。その後、助左衛門は「めい」、勘右衛門は「さよ」と結婚します。

助左衛門、勘右衛門達の素麺は高品質で忽ち評判になり、加賀藩御用達として中居を介して買い上げられ、金沢や高岡に送られていきました。納品されると前田藩の食用や江戸幕府や各国の大名、京都の公家に進献用に使われた記録が古文書に残っていました。併せて、地元の寺社(曹洞宗大本山:総持寺等)を介し全国の寺院に送られ、各地に広まっていったようです。「北陸に輪島素麺あり。北陸の名物なり」と呼ばれるくらい高い評価を得ていました。その頃に助左衛門が越中伏木港(現在の富山県高岡市)に原料の小麦を買付けに行った旨の古文書も残っていました(文化2年:1805年)。
※写真は曹洞宗大本山:総持寺
※総持寺に残されていた山岡鉄舟の大作

兄弟は協力し合いピーク時には町内に75軒(兼業含む)あった素麺屋の元締めとなり、町の筆頭組合頭になります。現在でいう商工会議所の会頭でしょうか?2人が勇退した後も、助左衛門の子:兵右衛門、続いて勘右衛門の子:官兵衛と久之氶が筆頭組合頭になる。以降、両一門からは常に一人ずつ組合頭を出していました。後に勘右衛門は町の肝煎り(今でいう町長)になっています。

然し乍ら、輪島素麺の興盛は長くは続きません。能登半島内では珠洲町、蛸島町をはじめライバルとなる生産地が出現、他国との競争も激化します。原料の小麦は越後や越前から買い付けするも、その地域も素麺の大きな消費地:顧客だったこと。素麺の生産は女性が主な担い手であり、生産地からの依頼により生産技術をもった女性を現地に連れて行き、技術を伝授させた事案が後を絶ちません。同時にブランド化した輪島素麺は品質悪化や目方の誤魔化しが続き評判を落としてしまいます。

※総持寺がある輪島市門前町黒島地区(天領)

そうした中で危機感をもった助左衛門、勘右衛門兄弟は失墜回復策として「素麺商売家定書」並びに「素麺家中定書」を続けて起案(文化10年:1813年)。「素麺家中議定連判書」にて素麺の品質向上、他国への技術移転禁止と並行し職人の生活向上を目的に手当ての基準を作り組合員に徹底させました。
理由は、各素麺屋が雇用する職人の手当てが低いと、モチベーションが下がり品質が落ちる傾向があることを2人は分かったからです。これはいつの時代も変わらないテーマだと思います。

然し乍ら、生産技術もそれ程高度ではなかったことや、輪島港は北前船の主要な寄港地だったこと、併せて、生産道具も輸出されていったことから、輪島素麺は江戸時代末期に徐々に衰退していくことになります。助左衛門が亡くなり、その孫の代になると、一門は素麺から撤退し豆腐屋に転換していました。勘右衛門が亡くなっても、その一門は三世代に渡り素麺屋を続けていました。

※写真は天保14年町内の職業一覧(左下に縄屋助左衛門、勘右衛門の名があります)

その時期、輪島では、素麺に代わり輪島塗りが北前船を介し各国の津々浦々に広まっていきました。漆器の他産地との競争の中で輪島塗独特の堅牢さ(「地の粉」と呼ばれる珪藻土を発見。それを漆に混ぜ耐久性を飛躍的に高めた)を最大の差別化として全国に普及させていきました。明治に入ると輪島素麺は最大の顧客である加賀藩や寺社、貴族を失っていきました。

※上の写真は現在の輪島港

先祖の2つの一門も江戸時代末期には、豆腐屋、素麺屋を廃し、輪島塗に職を変えたようです。私の高祖父:彦左衛門は輪島塗の絵師になっていました。それが我が先祖による輪島塗の始まりになります。

※下の写真:細谷漆器店の印には縄屋助左衛門の「助」の字が刻まれています。