初日は持参した木地をサンドペーパーで磨き表面に描いたデザインを消し、木の毛羽立ちを取り滑らかに仕上げます。サンドペーパーも300番で再度形を整えた上で800番、1200番と順に目を細かくして最後は2000番を使いツルツルに仕上げます。

二つで1組になるイヤリングは長さと幅は勿論、厚みや曲線も同じにする必要があります。これは何気に難しい作業でした。正にものづくりの原点かも知れません。

2日目は下地工程の最初の作業として、木の内部に残る空洞部分を埋めるため木地に生漆を塗り込みます。かんざしの表面の木目に細かく穴が空いているのが見えますでしょうか?この穴を埋めないと上に漆を塗っても凹みが出来てしまうからです。

朝塗って漆が乾くまでの間、夜までは自由時間です。

その間、母親の畑の草刈りを1時間半。夕方、夕まずめを狙い30分一本勝負に海に潜りに行ってきました。幸いに黒鯛と石鯛をゲット。ちなみに、四方盆の一辺は47cmなので、黒鯛は60cm弱でしょうか?生憎、産卵後のようで痩せていました(内臓は持ち帰ると臭いので海中で取り出したので尚更お腹が凹んでいます)。

夜は二回目の塗りです。二回塗ると木地にも漆の色が着いてきます。ちなみに、この状態で『塗物』として売っている産地もあるようです。

ちなみに、下地とは塗物で漆を塗るまでのベースを作る過程のことをいいます。私が職人として尊敬する祖父:忠兵衛が担当していた工程です。
祖父は明治28年生まれ。小学校を卒業して母親の実家に修行に入り亡くなる3年前の85歳まで実に72年間、下地一筋に職人を続けていました。
こんな私を見て、祖父は恐らく苦笑いしていると思います。ただ、唯一私が他の人と違うのは、子供の頃に祖父の仕事場で彼の仕事をよく見ていたことです。
一階には母親の仕事場があったのですが、母親の仕事が砥ぎ物といって途中の工程で塗物を平坦に磨き上げる単調な仕事だったのに対し、祖父の仕事は木地に漆を塗った布を巻き、更にその上から漆を塗って研磨する作業。

正に木が塗物に変わる工程であり、子供の目からはとても魅力的に映ったのだと思います。数年前に日本橋にある百貨店のイベントで輪島塗の職人の実演を見る機会がありました。

その職人は祖父と同じ下地職人だったのですが、技術力とスピードが伴わず、見ていたその場で絶句したのを憶えています。その時は『何故、彼は職人を続けていけるのだろう?』と不思議に思い、友達の職人に聞いたところ、輪島塗の需要が激減していて昔みたいに売れないから作業自体を急ぐ必要がないのと漆も高くなったので昔みたいに応分に漆を使えなくなり、布の張り方も変わったのだとか。

祖父の頃は輪島塗の工程を細かく分けて組織化する。輪島の町全体が一つの塗物工場のように整備されその時代の要請(需要)に応えていたのだと思います。

そんなことで3日目が修了するも今のところ、残念ながら祖父のDNAが自分に引き継がれていると感じる瞬間はまだきません。

ただ、普段は一人暮らしの母親と少しでも一緒に居てあげれるのと、お酒とお魚が美味しいのでとても幸せなひと時を過ごしています。

写真はぶりの子供の刺身です。