2008年11月19日
第3回 天来の遊歴に同行する 田中鹿川
天来はその一生の多くを、地方遊歴に費やしました。北は北海道・樺太から、南は九州・台湾まで旅をして、作品を頒布し、書の実技や歴史の講習会を行いました。連載三回目の今回は、その遊歴に同行した田中鹿川氏による貴重な記録です。


大正2年出雲。矢印右は田中鹿川氏(当時は比田井雄太郎)、矢印左が比田井天来。
大正2年4月に出雲の井原雲涯氏の斡旋で、初めて今市に書道の遊歴に
出られた。この年先生は42歳で、病後の療養を兼ねて1ヶ月位、松江や安来を回られた。先生は各地で大歓迎され、多大の成果を収められた。私もこの遊歴に
随行して、出雲大社の荘厳な社殿を参拝することができた。裏手の素盞鳥命の社殿前に杉の大木があり、その皮をお守りにすれば良縁があるということで、紙に
包んで大切に持っていたから、後になって本当の良縁でハナと結婚できたのかもしれない。
大正三年秋、先生は大町琵琶小路に転宅、鎌倉の文人名士と交友されたので、自然こういう方々の出入りが多くなった。松方公爵も近くにいられて親しく交際されていた。
大正四年春、私は病気のため、横浜渡辺病院に入院して治療した。金百数十円の巨額の入院費を先生に負担していただき、感謝の気持ちで一杯である。
大正五年春、先生は芝西応寺町に移転された。隣の工場の騒音に悩まされた上、偶々大暴風雨が襲来し、せっかく丹精して収集した蔵書の安全には、不安極ま
りなかった。この夏、鎌倉が勉強するのによいからと、建長寺正統院の座敷を二間借りて、私を連れて行き留守番をさせ、家族と別居された。関東第一の大寺院
は境内広大で幽邃で清閑、先生のご勉強は一層充実されたことと思われる。夏の終わり頃、出雲第二回目の遊歴があり、今市町や松江市などに随行した。この
秋、鎌倉の小町の本覚寺境内に借家して、先生は家族を呼び寄せられた。この頃先生は中国の木簡類の研究に、昼夜の別なく没頭していられた。ある日、「虎ノ
門の晩翠軒で番頭が要るから行け」と先生にいわれたので、そこで小僧生活にはいった。
大正8年夏、先生はかねてよりの書道館建設を実行に移そうと計画中であった。鳴鶴先生門下の田中誠爾氏のお誘いで北海道に遊歴して、各地で大歓迎を受け
た。先生は手紙で晩翠軒主人に依頼して、さらに電報で私を書生として呼び寄せられた。私はお盆の7月15日に、上野駅から夜行で発ち、青函連絡船で函館の
朝景色を眺め、直行して小樽駅に10時頃着き、人力車で法帖や画仙紙を持って先生のお宿本行寺に到着した。
各地財界の景気高騰にともない、東京では日当一円位のところ、この地では漁業期に入り、日当五円位していたから、「書道館建設の辞」が発表されると、揮
毫の依頼が殺到した。小樽、札幌、旭川、岩見沢、夕張、室蘭、苫小牧、帯広、釧路、根室、網走、美幌、留萌、函館などを随行して遊歴し、12月1日に弘前
に着き、大雪の寒さを味わって、中旬に鎌倉に帰った。この間、札幌の美しい街並みや十勝平野の雄大さを眺め、釧路では有名なガス(靄)の中を幌馬車に揺ら
れ、夢の国を旅する心地であった。アイヌ部落を見学し、網走海岸を浜歩きし、遠く千島列島を望むなど、再び見ることのできない貴重な体験をさせていただい
た。ある時は漁師町の旅館に泊まり、虱に攻撃されて辟易したこともあった。
大正10年から、先生は「学書筌蹄」の発行に忙殺を極められたので、晩翠軒に戻らず鎌倉で原稿の浄書が仕事になった。私も先生の勉強に刺激されて、書道の勉強に打ち込んだ。「書道提要」の校正や印刷で頻繁に横浜へ往復した。
この間、毎年次々に遊歴が行われ、大正8年に出雲第三回目、今度は田儀、大田、浜田、益田、津和野、山口と廻り、さらに福岡、小倉、下関を遊歴された。また翌年には、関東地方の前橋、高崎、伊勢崎、館林、桐生、栃木、佐野などの各地を遊歴された。
大正10年に慈子(よしこ)さんが生まれた時、ハナが産婆の橋場さんの助手として小琴先生の看護に来ていた。この頃先生と養母と橋場さんとで、私とハナと
の縁談が知らぬ間に進められ、田中の家を継がせるからには経済的にも困らせないし、家くらいは建ててくれるとの好条件で、年の暮れには大体話がまとまっ
て、ハナは芝の家に行き、産婆の免許状を取るため学校に通いながら、養母や老祖父の世話をしていた。先生のご意志に従って、田中家に両養子として入籍する
ことが決まった。
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