丹羽海鶴(文久3年・1863~昭和6年・1931)は名を金吾といい、後に正長と改めた。岐阜県恵那郡田瀬(現在の中津川市田瀬)に生まれた。幼少の時から書に興味を持ち、猛練習を重ねたという。20歳前後で郷里近くの飛騨高山の小学校に勤めたが、仕事以外の時間全て書の研究、手習いの時間であったという。当時の著名な書道家が高山に来遊すると、いつも宿泊先を訪ね、普段から疑問に思っていることを尋ねたり、書跡を求めたりしたという。しかし、殆ど満足のいく書道家にはめぐり会わなかった。

明治22年6月、書壇の第一人者と云われていた日下部鳴鶴(1838~1922)が高山を訪れた。廻腕法の執筆で有名であり、堂々たるその揮毫ぶりを見た海鶴は、その力に圧倒されてしまったのであった。鳴鶴の書の素晴らしさと、見識の高邁さに感動し、生涯の師であると確信したのであった。早速入門を願い出て許され、しばらくは通信の指導を受けていた。やがていよいよと思い、郷関を辞して上京し、鳴鶴の内弟子となった。後、7年間、日下部家に寄寓し、書の研鑽に務めた。

東京高等師範学校講師、学習院教官、大倉高等商業学校教授、文部省習字科検定試験委員とつとめた。

書は鄭道昭の楷書諸碑を基本的に学び、次いで唐代の楷書、特に虞世南、欧陽詢、褚遂良を学んだ。穏やかで気品に溢れ、規模雄大な書風を確立した。特に穏健中正のところは、当時の教育書道界に受け入れられ、斯界に絶大な影響力を持った。

丹羽海鶴臨書半紙「皇甫誕碑」

丹羽海鶴臨書半紙「孟法師碑」

上に、「皇甫誕碑」と「孟法師碑」を図版で示した。海鶴はこの「孟法師碑」を特によく学び、半紙や折帖などに数十回全臨をしたという。

丹羽海鶴書「戌申詔書」

昭和55年4月、東京新宿の朝日ギャラリーで開催された「現代書道を築いた人々展」に出品された作品を紹介する。海鶴楷書傑作のひとつと言われる「戊申詔書」の作品である。謹厳な響きの中に情感が漂う書風。まさに絶品である。


丹羽海鶴の時代の書について少しふれておくことにしたい。

明治から大正、昭和初期にかけての近代日本の書は、このシリーズの最初に書いた通り、中国・清末の楊守敬がもたらした古碑法帖拓本類によって、書道史上稀に見る発展をとげることになた。また、それと前後して、北方心泉、丸山大迂、中林梧竹、秋山探淵等の渡清による古碑法帖類との出合いがあったことも付け加えなけれがいけないであろう。江戸時代末まで流布していた、主に長崎渡りの明治・清代初期の肉筆本類や古法帖類の翻訳本などをテキストとして、幕末の三筆等によって学習法、指導法が固定化されていったことから脱却して発展したのであったが、初期の頃は、専門の書家と共に、漢学者、その他文人趣味を持った実業家、官界の要人などが、まさに1つの方向を目指して進んでいった感があった。内藤湖南、藤岡鉄齋、副島蒼海、犬養木堂などは、専門書家とは別種の独特な書風で広く世に知られていた。

しかし、やがて自分の書表現を意識し、研鑽し、書学を深め、技術を高めていった書家たちは、文人たちとは別方向に進んでいくようになった。これは至極当然なことであり、書の専業者である書家の立場、意味、方向性を確立することに繋がるのである。そしてそれぞれ少しずつ異なった人たちによる書道界、書壇が出来上がっていくのであった。

丹羽海鶴は日下部鳴鶴門の四天王の一人として、種々の書展の審査員を務めたり、後進の指導に当たってきた。大正6年(1917)、鳴鶴の80歳の頌寿宴が開かれ、その記念事業として大同書会が誕生した。

大同書会創立発起人集合写真

上の写真は会の創立発起人の集合写真である。大同書会編の雑誌『書勢』に掲載された。海鶴は後列、右から2人目。ここに鳴鶴門の四天王の一人渡邊沙鷗が写っていない。この前年(大正5年)の10月、沙鷗は亡くなっているのだ。また、80歳の寿宴は5月13日に開かれ、『書勢』はその10月に創刊されている。写真の前列中央の鳴鶴の向かって左隣の阪正臣(比田井小琴の和歌の先生)は、この年の8月25日に76歳で亡くなっている。日下部鳴鶴、松田南溟、近藤雪竹についてはこの欄で紹介済みであるが、次号から数名の人たちについては紹介する予定である。

丹羽海鶴書・鳴鶴先生草書四時讀書楽帖題字

日下部鳴鶴(1838~1922)の没後、大正14年2月に東京巣鴨の澄映堂から『鳴鶴先生草書四時讀書楽帖』(南宋・朱熹の四季それぞれを七言律詩で詠んだ詩)という本が上梓された。話はそれるが、梓は版木のことをいい、版木に刻して出版することを”上梓”というようになったのである。(四時はシジまたはシイジと読む)

澄映堂という出版社が、どういう会社なのか、調べてみてはいるが、よく解らない。昭和初期には吉田苞竹(明治23年~昭和15年)と関係する出版物を出すようになるが、その実態は確認できていない。代表は石渡亀次郎という人物である。

『四時讀書楽帖』の扉の題字を丹羽海鶴が書いている。実に惚れ惚れする姿である。謹厳実直でありながら、抱擁力に溢れた優しさの滲み出ている書である。