私が最初に石田栖湖先生にお会いしたのは、昭和45、6年頃だったと記憶している。はっきりしていないのだ。実に嘆かわしい話だ。石田先生が戦後再上京されたのが、昭和43年のこと。それから間もない頃で、渡部半溟氏に連れていっていてだいた。井の頭公園の近く、吉祥寺の閑静な住宅地だった。アトリエ・書斎には墨の香りが漂っていた。壁面(床の間だったか?)に目を遣ると、渡邊沙鷗の作品が掛かっていた。それまでに経験したことのない文字の結体との最初の出会いであった。紙面から溢れ出てくる、ビーンと張り詰めた緊張感と冴え渡る線の響き。初めて接する沙鷗の作品であった。それまでに何点かは見たことはあったが、小品であったり、解説的な臨書であったりで、更にこちらの意識もそこまでの構えがなかった為であったのかもしれない。とにかく、衝撃的な事であった。確か字粒が小さめの行草書3行幅であったと記憶しているが、これも半溟氏に確認してみないといけない。その後、石田先生に沙鷗の書についても話をしていただいた。

それから数年後、昭和49年の日本書人連盟の新年会の折、お客様で出席されていた比田井南谷先生が、書学院出版部の社員を募っていることを話され、石田先生、桑原呂翁先生の推薦により、私が横浜の書学院出版部に勤めることになったのである。

書学院には、比田井天来(1872~1939)と沙鷗との関係から、沙鷗の作品が十数点所蔵されていた。また、書簡・ハガキは六十数点あり、交友の深さを物語っていた。

昭和62年の年末ごろ、南谷先生から沙鷗の条幅作品を5点譲っていただいた。渡邊沙鷗(1)で紹介した2点と、下に紹介する3点である。私は斎号を「五福臨門庵」としている。五福を五幅と懸けているのだ。北川博邦先生に「庵に門は無いんじゃないの」と言われたのだが、私は「柴の門のある庵(いおり)です」と嘯いた。

右の作品は天来の結婚を祝って書き贈ったもの。慶語が多く出てくる。他に隷書の対幅がこの時一緒に贈られていて、それには十月二十日と書かれている。天来の結婚の披露宴は、沙鷗の家の二階で行われたが、期日は明治34年10月20日ということであろう。

中の作品は五言句の詩。栗山先生は柴野栗山か。未調である。

左の作品丁未七月とあり、明治40年7月。鷗雨荘は天来の堂号。天来はよく引っ越しをしたが、この頃は牛込岩戸町法正寺内に住んでいた。天来の家でお酒をご馳走になり、興に乗って筆を揮ったのであろう。

沙鷗は大正5年(1919)、53歳で亡くなった。命日は10月15日。我が師・比田井南谷も平成11年10月15日に亡くなっている。

渡邊沙鷗書 条幅三種