楊守敬より譲り受けた拓本類の包み紙表書き

楊守敬の項にも書いたが、明治13年4月に来日した楊守敬を、日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯が訪問している。松田雪柯の日記により、7月17日に訪ねたことは判っていたが、上写真から、二週間後の7月31日に鳴鶴は守敬から、金文・瓦当・塼・墓誌銘・造像記などの拓本類を譲り受けている。

鳴鶴はこれらの拓本類と同時に、守敬の著作物をはじめとする書籍類も手に入れている。守敬41歳、鳴鶴42歳であったが、守敬は既に『激素飛清閣平碑記(ひょうひき)・平帖記(ひょうじょうき)』『楷法溯源』『望堂金石文字』『論語事実録』など、書道関係の専門書を著していた。鳴鶴は自分の何人かの門下生に対する指導法の1つとして、活字本1冊の写本を作らせている。実際に比田井天来の写本『激素飛清閣平碑記・平帖記』『淳化閣帖釈文上下』、渡邉沙鷗の『傅習錄欄外書』、辻香塢の『倪雲林詩抄』他が遺っている。比田井天来の写本については、いづれ紹介したいと思っている。

鳴鶴は明治24年3月、中国江南地方を訪ねている。呉大澂、兪曲園、楊見山、呉昌碩等と合い、親しく交わったという。その中でもとりわけ、呉大澂、呉昌碩とはその後も、特に交際が深まっている。旅行の案内役の一人、筆匠の憑耕三(ふうこうさん)に連れられて行った杭州の西湖の近くの霊穏寺では、紫雲洞という洞穴の入り口付近に、すすめられて「大日本明治ニ十四年夏六月日下部鳴鶴来游於此」と隷書で書き、後に立派に刻された、という話がある。私は11年程前に、隅々霊穏寺に行くことがあって、その摩崖刻を探したことがあった。限られた時間内のことで、方々を見て回ったのだったが、見つけることが出来ず、全く残念であったことが想い出される。

拓本ファイル表書き

写真は鳴鶴が旅行中、上海で入手した金文の拓本を挟んだ、厚紙ファイルの表書きである。「辛卯五月廿一日、獲于上海客次」とある。辛卯(かのとうさぎ)は明治24年、126年前の書跡である。

日下部鳴鶴揮毫写真

鳴鶴は守敬から「廻腕法」という執筆法を学んだ。写真は鳴鶴の執筆時のもの。今ここでは詳しくはふれないが、ご覧のように紙面に対して筆は垂直であり、椅子に腰掛けての執筆である。この写真は80歳ごろ、晩年のものであるが、この廻腕法を会得してからは、執筆はすべてこの方によったという。この鳴鶴が使っていた机、現在我家の2階にある。

『包世臣・安呉論語』 鳴鶴廻腕法による執筆