日下部鳴鶴照影

日下部鳴鶴(天保9年・1838~大正11年・1922)は彦根藩士・田中総右衛門の第2子として江戸の藩邸で生まれた。幼名は八十八(やそはち)、三郎、内記(ないき)といった。字は子暘(しよう)、名は東作(とうさく)。はじめ号を東嶼(とうしょ)翠雨とし、後に鳴鶴と美術年鑑などを見ると、「近現代の人脈」といわれる欄の漢字部分6割強の人達が、日下部鳴鶴からの流れの中に掲載されている。それだけ近現代の書壇に影響を与えたということができる。系譜中、丹羽海鶴、黒崎研堂、木俣曲水、岩田鶴皐…となっている。

上写真は鳴鶴が80歳の時の照影である。鳴鶴は算84歳で亡くなっているので晩年のものということになるが、鳴鶴関係の出版物の肖像写真は、結構これが使用されることが多いようだ。十数年前に、比田井天来先生の長女・抱琴先生の遺品を整理したときに頂戴したものの1つである。他に鳴鶴関係のものでは、『小野道風・屏風土代』のコロタイプ印刷巻子本・鳴鶴箱書き付き。湖州陳象九自製・長鋒大屏筆、老文元復記長鋒五羊對・玉版金丹、戊戌夏日・武林邵芝厳精選・超品長鋒大楷宿羊毫、等の筆であった。

左・鳴鶴箱書き  右・鳴鶴遺愛筆

『道風行書詩巻』の箱書きにある「珂羅版(からばん)」とはコロタイプ印刷のこと。中に入っていた印刷された巻子本の本誌は、既に糊剤が劣化してバラバラになっていたため、直線、直角を確認しながら新しい糊で仕上げ直した。筆は一度洗い直し、これ以上毛が抜けないよう、軸の根本を固め、糸で巻いた。なかなかの遣い心地で、クタクタに柔らかくはない毛質で、鋒先もかなりよく効き、弾力のある筆である。これらの筆を遣い、例の廻腕法(かいわんほう)で書いていたのかと思うと、何か感慨深いものがある。「陳象九(ちんしょうきゅう)」「老文元(ろうぶんげん)」「邵芝厳」はいづれも筆匠の名。湖州は現在の呉興。杭州の北80km程の所にある。「李鼎和(りていわ)」などの筆匠もあった街。「邵芝厳」の武林(ぶんりん)とは、浙江省杭州の古い呼び名である。

余談になるが、赤穂義士・四十七士の中に武林唯七という馬廻り役の武士がいるが、彼は杭州出身で、日本に帰化し、和名を出身地から武林とした。32歳で切腹した。他の義士たちは辞世の和歌、俳句を遺しているが、彼だけは漢詩を遺している。「三十年来一夢中 捨身取義夢尚同 雙親臥病故郷在 取義拾恩夢共空」とある。