楊 守敬 (2)

2017年2月10日

墨田区向島2丁目、隅田公園の北端に三囲神社がある。祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)である。元は田中稲荷と称していたという。創建年は不詳。伝記には、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴してきた時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改装のため地面を掘った所、壺が出土した。中には右手に宝珠、左手にイネを持って白狐に跨った老人の神像があった。その時、白狐がどこからともなく現れて、その神の回りをぐるぐる回って死んだという。そのことが ”みめぐり” の名称の由来であるという。

この三囲神社の境内に「秦蒙将軍之象」という石碑が建っている。蒙将軍は秦の蒙恬(もうてん)(?~B.C.210)をいう。匈奴征伐や北方民族からの防備に功績のあった将軍で、筆の発明者としての名もある。ただ、筆としての機能を備えたものはそれまでも存在してはいたのだが、いわゆる秦筆を創り出したのである。この碑の撰文と書者が楊守敬である。篆額は黎庶昌(1837~1897)と碑にはあるが、明らかに楊守敬の書に間違いない。この黎庶昌は貴州省遵義の人で、何如璋の後を受けて、明治14年から第二代清国駐日公使となった人。17年に一度退くが、再び20年から公使となっている。建碑は明治15年(1882・光緒8年)の10月で、建立した人物は筆匠・高木寿穎である。高木寿穎は名匠といわれた人だが、研究熱心な人で、この頃、楊守敬との関係で来日した中国の筆匠・慿耕三(ふうこうさん)から唐筆の製法について教えを請うている。

この蒙将軍碑は、下方に蒙恬の像が線彫にされている。丸山応挙(1733~1795)の筆になるものだが、落款に「天明癸卯暮春写応挙」とあり、天明3年(1783)の3月、応挙50歳の時の素描を使用したことが解かる。しかしこの像は蒙恬だけでなく、王羲之である。

残念なことに碑はかなり傷んでいて、写真を転載させていただいた元の雑誌「書勢」が刊行されていた対称年頃と比べると、図版のようには見えない。ただこの神社には、幕末の三筆の一人・巻菱湖の菱湖先生之碑もある。菱湖門四天王の一人、大竹蒋塘の書になり、見事な褚遂良ばりの楷書である。機会があったら訪ねてみてはどうだろうか。

下の図版は、日下部鳴鶴宛の楊守敬の書簡。明治13年の楊守敬来日から鳴鶴との交流が始まった。この書簡の封筒に、光緒甲辰四月とある。光緒30年(明治37年・1904)、守敬66歳のものである。

 

蒙篆の碑2種

楊守敬撰書「秦蒙将軍之象」

 

楊守敬5

楊守敬書簡(日下部鳴鶴宛)蒼石蔵

 

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江戸時代
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