我々が今日、学書の基本的な方法論として、何の疑いもなく考えている臨書ということに関して、そのルーツを遡っていくと、日本に於いては前回までに紹介した、江戸末期の三筆といわれる貫名菘翁という人が出てくるが、中国からの流れを考えると、明治13年(1880・光緒6年)に清の楊守敬(ようしゅけい)の来日ということが、1つのポイントとしてあげられてくると思う。

楊守敬(1839~1915)は湖北省宜都の人。字は惺吾、晩年は鄰蘇老人の号を用いた。楊守敬は24歳で郷試に合格して、挙人になるがその後、7度に亘る斗挙の為の会試の受験には不合格となっている。日本に来た時も6度目の受験に失敗した後で、光緒帝の6年といえば、かの西太后・「蒼穹の昴」の時代である。初代駐日公使(正式には「出使日本大臣」という)の何如璋の招きによって来日した。公使・何如璋と楊守敬は若い時からの知り合いで、天津へ旅行した時も、役人であった如璋は守敬を書の名家として宣伝し、潤筆料をたくさん稼がせている。

日本には古碑帖類の収蔵と鑑識に秀でていて、書学者として『激素飛清閣平帖記・平碑記』『論語事実録』『望堂金石文字』『楷法溯源』等の著書もあるということで、随員として招いたのであった。会試の受験や仕事の関係で、家族一統が引っ越し移動中の時であったために、書道関係の書蹟類を大行李7個に入れたままであった。これ等の書蹟類は、20代初めごろから北京の瑠璃廠他、各地で蒐集した古碑法帖、金石関係のもので、1万数千点あったという。ただこの数も私の推測では、碑の剪装本や法帖1冊も1点であるが、金文、塼の拓本一葉も1点という算え方であったのではなかろうかと思っている。後にそれらの中の一部を譲って貰った日下部鳴鶴が、拓本を包んだ紙の上書きに「何種何葉」と数字を書いていたのを過眼したことがある。

来日した楊守敬はこの年の7月17日に松田雪柯、厳谷一六、日下部鳴鶴の訪問を受けた。書家、書学者、研究者として有名であった守敬が将来した古碑法帖類の中で、3人の最も目を引いたのは、北碑関係の碑版拓本類であった。周秦漢の金文・刻石類、漢碑、魏晋呉三国、北朝の諸碑、一連の摩崖碑、造像記、墓誌銘などである。宋元明清の尺牘法帖類は、それまでも中国からのものを直接手にしたり、長崎経由で入ってきたものを翻刻・和刻本の法帖として接していたのであったが、古い時代の臭いや躍動感が直接伝わる、力強い拓本類は実に衝撃的であった。

写真①は楊守敬が将来した「建寧元年塼」の拓本。文字が左右反転になっている。左下に「惺吾所有金石之記」の陽印がある。

②は楊守敬の著書『論語事実録』の表紙裏に書き込まれた守敬自筆の識語。日下部鳴鶴、比田井天来、南谷旧蔵の珍品。この書を最初に見つけた時、一見、渡邊沙鷗か比田井天来の書かとも思った。

①「建寧元年塼」 ②『論語事実録』の識語

③は楊守敬が来日する十年以上も前から編集製作を始めて、明治17年の帰国後に完成させた『激素飛清閣蔵碑』(全17冊・木版本)の中の16冊、「日本題名(多胡碑)・郎官石記」の表紙と『多胡碑』部分。日下部鳴鶴、比田井天来、南谷旧蔵。

③楊守敬編『激素飛清閣蔵碑』(第16冊)日本題名・郎官石記