貫名菘翁(1778~1873)について少しふれてみたい。

菘翁は、安永7年、阿波徳島藩士・吉井直好の三男として生まれた。家は代々藩主に「礼方」として仕えた家柄で、母親の影響で読書の合間に好んで絵をかき、幼い頃から画才が豊であったという。母から絵の才能を褒め称えられた彼は、やや長じてからは母の弟である藩の絵師から直接指導を受けるようになり、腕前も上達していった。なる程、やはり子供は褒めてのばしてやるのが一番だということなのだろうか。彼は画家としても有名で、かなりの絵を遺している。

書は西宣行(にしのぶゆき・1750~1812)という、徳島城下で同じ眉山の麓の地続きに住み、王羲之や米元章の書を学んだ人物に指導を受けることに始まる。当時大へん高価であった木版刷りの法帖類もたくさん所蔵していた書の師・宣行という人は、後に京都に出て、詩文や和歌をよくした温厚な文人として有名である。当時の木版刷りの法帖類は、長崎から入ってきた中国の拓本法帖を翻刻したものが殆どで、宣行もそのような法帖類を架蔵していたと思われる。

菘翁は17、8歳の頃、叔父を頼って高野山に上って、書と学問の道に専念したと伝えられている。高野山を降りてからは、京都、大阪に住んでいる。その頃に、吉井姓から家祖の姓の貫名に改めている。

菘翁と号したのは71歳ごろのことで、それまでは海屋といっていた。後年、江戸の米庵、巻菱湖と共に幕末の三筆と言われるようになるのだが、それは彼が勤勉で真面目な性格、丹念に精魂を傾ける努力型であった為に他ならない。

左・「越洲録跋」 右・貫名菘翁臨「鄭審則・越洲録跋」

掲載の作品、まず左が、平安時代に最澄が入唐し、彼他で求め将来した経文等の目録である「越州録」に書かれた判語・跋文である。当時の唐の明州刺史をしていた鄭審則の書になる。この鄭審則という人は詳しい伝記のない人で、『新唐書宰相世系表』に滎陽の名族ということで名前が載っていてただけの人物なのである。しかしこの書もなかなかのもので、この品位と格調の高さには、並々ならぬものを感じる。この巻子一巻は、巻頭の最澄書をはじめ、遣唐使持節大使の藤原葛野麿等の署名も含めて国宝に指定され、延暦寺蔵となっている。

右はその鄭審則の書を貫名菘翁が臨書したものである。菘翁はその「越州録」を見たい、そして臨書してみたいが為に足繁く延暦寺に通ったという。文永2年(1819)、菘翁が42歳の海屋時代、大阪の森川竹窓という人が、『集古浪華帖』に最澄書、鄭審則書等を并せた「越州録」を刻上し上梓していた。菘翁はそれを見て知っていたのであった。

菘翁はとにかく碑版法帖類から名家の真蹟類まで、巾広く学んだ。写実的という言葉がぴったりではあるが、単に形だけでなく、原帖の書者の思い、精神まで見抜こうとしていたのかもしれない。