2010年11月15日
「節と曲について」
さて、その第9章「息と音楽性」の冒頭には、こうある。
「世阿弥の伝書は〈息〉の書である。すべて〈息〉の工夫である。
しかしそう語ることによって、武道や芸道の話と直接的に結びつくことを恐れる。
伝書の〈息〉は〈気合・気迫・気勢〉ではない。むしろ〈音楽性〉である。
世阿弥の〈息づかい〉はすべて音楽性の話である」
◇
日頃、書における音楽性を口にし、
手本を「聴く」ように、などといている私からすれば、
ここに「音楽性」が出て来たことは、ゾクッとさせられる一事なのである。
ただ、この音楽性は、広く深い意味を孕(はら)んでいて、
「能という総合芸術の芸術性に関わる。その精神性に関わる。
あるいはその霊性に関わる。現代英語ならば〈能のスピリチュアリティ〉
と語るであろうその位相を〈音楽性〉と呼ぶ」
というのだから、軽々に喋々(ちょうちょう)すべきものでないらしいことは、
うかがい得よう。
なお、ここで「霊性」の語が出ているが、
「書には霊性の書というべきものがある」と、
日頃口にしていた翠邦を思い出す。
◇
また、「風のそよぎ、雲の流れ、森羅万象すべてが音楽性を持つ」とした後、
渡辺守章氏の著書から、「〈万物の間に存在する関係の総体〉としての(音楽)」
というコトバを引いている。
書は関係から成り立つ。
点や線というモノではなく、それらの関係から立ち上がるコトが書である、
などと日頃繰り返しいっている私にとって、
「その関係の総体が音楽」という表現から、関係の総体、
あるいは諸相のなかに書を見取ることは、とりもなおさず、
書を音楽として聴き取ることと重なるという結論が引き出され、
大きく納得させられるわけである。
◇
また、そのしばらく後には、「流れの位相は〈区切りがない〉。
区切りがある〈節〉や〈形木〉は習うことが出来るが、
区切りのない〈曲〉や〈趣き〉を直接習うことはできない」とある。
◇
いよいよ「節」と「曲」が出てきたが、
ここから詳しく書こうとすると、既に誌幅が足りない。
変な話だが、本論はかけ足とすることにしよう。
要するに、節は型があるから、教えようも学びようもあるが、
曲はその節を極めたところから、おのずと生じて来るものなので、
学びようも教えようもない、というのである。
◇
大事なことは、節を極める後にしか曲は立ち上がらないから、
はじめから曲をまねるというようなことは厳しく戒めている、ということである。
型を学ぶことは可能だから、一生懸命学ぶべきであるが、
そこから曲が立ち上がって来るかどうかは、
もう指導の範囲を超えている。
それではどうするのか。
世阿弥はそこのところを何とかしようと考え、
生涯そのことに腐心している。
この点、世阿弥は親切な人なのだと思う。
また、曲とはどんなものか、幾つも疑問形で自問している。
この点、誠実な人だとも思う。
◇
こうして私は、世阿弥に、またこの本の著者西平直・京大大学院教授に、
数え切れぬほどの感銘を受けているわけだが、
ほとんど曲解に近いような勝手読みが多いかもしれない。
それにしても、書に引きつけての実に多くの示唆を受けていて、感謝にたえない。
と同時に、世阿弥の力の強さ大きさを感じ、
それに浴せる幸せに、また感謝である。
「書統」誌(萱原書房刊)No.418 2010.10
P57 スタッフ・ルーム 呂翁徒然草「節と曲」より