「節と曲について」

zeami.jpg『世阿弥の稽古哲学』という本について、

少し書こうと思い立ったのだが、

一言でいえば大変密度の濃い労作で、

読み返すところが多いため、

まだ通読も果たしていない。

実に手ごわい内容であり、

要領を得た概説など、

とても出来る段階ではないので、

「節と曲について」といった点に絞って書こうかと思う。

そんな程度で何故取り上げる気になったかというと、

極めて刺激的で魅力的だから、とお答えするしかない。

私にとっては、玉手箱のような一書である。

さて、その第9章「息と音楽性」の冒頭には、こうある。

「世阿弥の伝書は〈息〉の書である。すべて〈息〉の工夫である。

しかしそう語ることによって、武道や芸道の話と直接的に結びつくことを恐れる。

伝書の〈息〉は〈気合・気迫・気勢〉ではない。むしろ〈音楽性〉である。

世阿弥の〈息づかい〉はすべて音楽性の話である」

          ◇ 

日頃、書における音楽性を口にし、

手本を「聴く」ように、などといている私からすれば、

ここに「音楽性」が出て来たことは、ゾクッとさせられる一事なのである。

ただ、この音楽性は、広く深い意味を孕(はら)んでいて、

「能という総合芸術の芸術性に関わる。その精神性に関わる。

あるいはその霊性に関わる。現代英語ならば〈能のスピリチュアリティ〉

と語るであろうその位相を〈音楽性〉と呼ぶ」

というのだから、軽々に喋々(ちょうちょう)すべきものでないらしいことは、

うかがい得よう。

なお、ここで「霊性」の語が出ているが、

「書には霊性の書というべきものがある」と、

日頃口にしていた翠邦を思い出す。

          ◇

また、「風のそよぎ、雲の流れ、森羅万象すべてが音楽性を持つ」とした後、

渡辺守章氏の著書から、「〈万物の間に存在する関係の総体〉としての(音楽)」

というコトバを引いている。

書は関係から成り立つ。

点や線というモノではなく、それらの関係から立ち上がるコトが書である、

などと日頃繰り返しいっている私にとって、

「その関係の総体が音楽」という表現から、関係の総体、

あるいは諸相のなかに書を見取ることは、とりもなおさず、

書を音楽として聴き取ることと重なるという結論が引き出され、

大きく納得させられるわけである。

          ◇

また、そのしばらく後には、「流れの位相は〈区切りがない〉。

区切りがある〈節〉や〈形木〉は習うことが出来るが、

区切りのない〈曲〉や〈趣き〉を直接習うことはできない」とある。

          ◇

いよいよ「節」と「曲」が出てきたが、

ここから詳しく書こうとすると、既に誌幅が足りない。

変な話だが、本論はかけ足とすることにしよう。

要するに、節は型があるから、教えようも学びようもあるが、

曲はその節を極めたところから、おのずと生じて来るものなので、

学びようも教えようもない、というのである。

          ◇

大事なことは、節を極める後にしか曲は立ち上がらないから、

はじめから曲をまねるというようなことは厳しく戒めている、ということである。

型を学ぶことは可能だから、一生懸命学ぶべきであるが、

そこから曲が立ち上がって来るかどうかは、

もう指導の範囲を超えている。

それではどうするのか。

世阿弥はそこのところを何とかしようと考え、

生涯そのことに腐心している。

この点、世阿弥は親切な人なのだと思う。

また、曲とはどんなものか、幾つも疑問形で自問している。

この点、誠実な人だとも思う。

          ◇

こうして私は、世阿弥に、またこの本の著者西平直・京大大学院教授に、

数え切れぬほどの感銘を受けているわけだが、

ほとんど曲解に近いような勝手読みが多いかもしれない。

それにしても、書に引きつけての実に多くの示唆を受けていて、感謝にたえない。

と同時に、世阿弥の力の強さ大きさを感じ、

それに浴せる幸せに、また感謝である。

 

「書統」誌(萱原書房刊)No.418 2010.10

P57 スタッフ・ルーム 呂翁徒然草「節と曲」より

 

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