詩歌の形と〈書〉
小松英雄『平安古筆を読み解く』(二玄社)などによると古筆の字母の選択、散らし書きにも行分けや墨継ぎや濃淡など、歌意の絵画的な表現への意図が色濃くあったであろうことが論じられていますが、今回紹介するのはおもに近代活字が登場してからの新しい形式です。短歌では多行形式が試みられました。たとえば石川啄木の有名な
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに (「一握の砂」)
呼吸すれば、
胸の中にてなる音あり。
凩よりもさびしきその音! (「悲しき玩具」)
句読点の使用なども当時はひどく新鮮だったでしょう。おそらく新体詩などの影響が強いのでしょうが、古筆の散らし書きとは似ているようで、おそらくその意図も効果も異なっていると思います。活字化によってこぼれ落ちてしまった部分の奪取とでもいったらいいのでしょうか。会津八一の分かち書きや次の前田夕暮の2倍ダーシの使用などもこれと共通して考えていいと思います。
自然がずんずん体の中を通過する──山、山、山 (「富士を歌ふ」)
釈迢空(折口信夫)も多行短歌を作っています。
餌に満りて、
ゆるぎあるける 犬のよさ。
大白犬に
生れざりけり (「春のことぶれ」)
俳句にも多行形式があります。代表格が高柳重信です。
●『高柳重信読本』(角川学芸出版)
身をそらす虹の
絶巓
処刑台 (「蕗子」)
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな (「蕗子」)
まなこ荒れ
たちまち
朝の
終わりかな (「蒙塵」)
好き嫌いもあるかと思いますが、私などは短詩型の一つの極まった姿だと思います。これらは活字で発表されることを前提にして作っているのだと思いますが、これを書作品化した例があるのでしょうか。書にすると不可思議なものになってしまいそうな気もするし、まったく違う世界が開けてくるような気もするのです。
文字の作る形に敏感だった詩人はたとえば吉田一穂。この人の詩は書作品として書かれることが多いようです。これも横組にしてしまうとなんだか情けないのですが、「Delphinus デルフィヌス」は有名です。
空
鴎
波
岬
燈台
(海の聖母〈マドンナ〉!)
☆
雲
驟雨
貿易風
潮の急走
海は円を画く
(太陽は真裸だ!)
痙攣る水平線
水の落魄
回帰線
流木
鱶!
泡
●加藤郁乎編集『吉田一穂詩集』(岩波文庫)
こうした試みは文字列のレイアウトに積極的な意味(切断感や一種の象徴性)を持たせようとする態度ですが、詩の組まれた文字列を一つの「景色」として、そこに文字の意味だけではない意味を込めようとする方向にもつながっていくでしょう。さらに次第に文字列そのものをオブジェのように扱い、表現の主題とする方向にも近づいていきます。1970年代には日本でも「コンクリート・ポエム」として試みられました。新国誠一の作品も活字ベースの表現で、むしろ活字の非人称的な冷たさが表現のバネになっていたのではないかと思いますが、これにもアプローチの仕方によっては書的な可能性が潜んでいると思います。最近再評価され、作品集が出ています。以下は新国誠一の「雨」の一部。
●『新国誠一 works 1952-1977』思潮社
西欧では「図形詩」という形式が「カリグラム」とも呼ばれ、20世紀初頭から(本当は古代からあるようですが)試みられました。アポリネールの「虐殺された鳩」は有名でしょう。それ以外にも文字列を造型として認識してそこに何らかのポエジーを求める試みは西欧に多くあり、以下に詳しく紹介されています。
●四方章夫『前衛詩詩論』思潮社
「文字列を造型として認識してそこに何らかのポエジーを求める試み」とは現代書のあり方の一端を示していないでしょうか。
もう一つ、塚本邦雄による「定型詩劇」の試みを紹介します。「ハムレット」を邪悪な人物たちが呪詛を振りまきなから自滅する悲劇と読み替えて、セリフやト書きなども短歌などの韻文で構成されているというもので、文字列の作る図形とも相まって、一種異様な「劇」が紙上で上演されます。たとえばこうした試みが書でなされたら面白いかも、などと思ってしまうのですが、いかがでしょうか。
●塚本邦雄『ハムレット』(深夜叢書)
繰り返しになりますが、文芸作品を題材にした書作品を販売する場合や公募展に出品する場合、没後50年を経ていない作家の文学作品は、文芸家協会の許可を得なくてはいけないことになっています。お忘れなく。
古賀弘幸
書と文字文化をフィールドにするフリー編集者。
http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/
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