2009年2月 8日

第22回 東海道品川宿を歩く3 品川本宿の碑をめぐる

022-01-01ss.jpg 大嶋堯田書碑にめぐりあう
  品川神社をあとに京急の高架をくぐると左に、正徳寺(北品川2‐9‐26)があり、本堂左手の墓地に「鈴川権藤先生墓」(図1−1)(〜文久二年)がある。
(図1-1)        (図1-2)
「信濃□□惟常撰、武蔵大嶋信書」とあり、びっしりと墓誌銘(図1−2)を刻むが剥落が多い。信は、巻菱湖に師事した大嶋堯田(文化2〜明治18)の名である。堯田の書碑には、ここが初めての出会いである。菱湖の門人らしい温和で清々しい楷書だ。銘文に、「□□優遇為侍医」「傷寒論」などの語句が見られるので、鈴川先生は医者のようだ。因みに京都大学図書館に「傷寒論」の写本があり、「権藤鈴川抄」と記されているという。


(図2)
その先には、高松藩儒「牧野黙庵」(〜嘉永2)の墓がある。墓は、昭和五年に再建されたもので、墓誌銘(図2)に三世孫謙謹撰、曾孫婿佐藤仁書とある。黙庵は、十五歳で菅茶山に師事し、のちに江戸にでて佐藤一斎の門に入り、菊地五山の詩社中にも属した人のようだ。そばにある自然石に刻された「黙僊大橋亮雄墓」も風格がある。塀際に明治37年の旅順口での戦功を称えた「芳村芳松君碑」があり、安野清江書とあった。

(図3)                      (図4)
 門を出て、右の塀際に路地を進むと、七福神の布袋尊を祀る養願寺(虚空蔵堂) にでる。虚空蔵横丁と言われる門前の街並みは、どこかレトロな雰囲気を醸す(図3)。横丁を抜けた突き当たりが寿老人を祀る「一心寺」で、 商店街(旧東海道)を少し品川駅の方へ歩くと、左に法禅寺(北品川2‐2‐12)がある。ここは天保の飢饉に際し品川宿で餓死した892人の大半が葬られたところで「流民叢塚碑」(図4)がある。碑は明治4年に建てられたもので、現在は納骨堂の上に安置されている。


(図5-1)
弁天社に建つ寛政の「鯨碑」
品川は、宿場町であるとともに漁師町でもある。法善寺をでて海側の八つ山通りにでると、交番の斜め前辺りに、利田(かがた)神社(北品川1‐7‐17)(図5−1)がある。ここは旧目黒川の河口の砂州に弁財天を祀ったところで、広重の江戸百景に「品川すさき」として描かれている。海に突き出た松林に弁天社が建ち遠景に沢山の帆船が浮かぶ。昔は絶景だったのであろう。このための提灯には弁財天社(図5−2)とある。


(図5-2)

(図5-3)

(図5-4)
小さな境内の一隅に自然石に刻された「鯨碑」(図5−3)がある。
「江戸に鳴る冥加やたかしなつ鯨」と谷素外の句を刻み、華溪稲貞隆が書している(図5−4)。碑は寛政十年に建てられたもので剥落が激しく、昭和四十四年に改修されている。稲が稲葉なのか稲川なのか、書者についての詳細は不明。
寛政十年五月、品川・天王洲の浅瀬に長さ九間、高さ六尺八寸と言われる大鯨が乗り上げ漁民に捕獲されたという。このニュースが瓦版にでて江戸市中から大勢の見物人が繰り出し、将軍家斉も御殿山の浜御殿まで鯨を曳かせて見物したと伝えられる。この鯨碑は、その鯨の骨を埋めた上に建てたのだと言う。しかし、境内が狭まり碑も移設されただろうから、碑の下にはきっと鯨骨は無いだろうと密かに思う。

(図6-1)
利田神社を後に、八つ山通りを更に南へ行くと寄木神社(東品川1‐35‐8)がある。ここは、品川猟師町の鎮守で、「江戸漁業根元之碑」(図6−1)が建っている。碑は、昭和23年に建てられ、料理研究家で随筆家の本山荻舟(1881〜1958)が寄木神社の由来と品川浦の漁業について記している。漢字カタカナ交じりの書は、地元で、日本書鏡院を創設した長谷川耕南が揮毫している(図6−2)。碑陰に「大正五年にこれを求めたるも建碑に至らず」とあり碑石が30余年境内に放置されていたことが記されている。

(図6-2)
碑文に因れば、「品川浦は本芝浦金杉浦と共に三浦元と称されたが......當浦が事実上元締となった」とある。又、「江戸名産の海苔は......天正以降品川洲崎の天王洲を本場とした乾燥製品は東叡山(注・寛永寺)御用達のある集散地を冠称して浅草海苔と呼ばれた」とある。浅草海苔のルーツは、品川洲崎の海苔だったとは...。

山手通りと、八つ山通りが交差したところにある聖蹟公園は品川本陣跡で、明治天皇の聖蹟を刻んだ碑など数基がある。

(本稿は、『書21第33号』江戸東京の碑8を改稿し一部を抄録したものです)

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