2009年1月 1日

第21回 東海道・品川宿2

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書碑の宝庫・品川神社

 今年の初春は、品川神社に初詣がおすすめ。境内に林立する碑を見て歩くのは、結構楽しいものである。

21-01sekihyou-s.jpg 京浜急行を、新馬場の駅で降りると、目の前の第2京浜国道に面して品川神社(北品川3‐7‐15)がある。
石段下の大鳥居には龍の彫刻が施され、大きな狛犬が眼を光らせる。品川北本宿を擁した神社の繁栄ぶりが偲ばれる豪勢なものだ。鳥居脇の天を突くような石標には、正二位勲一等伯爵清浦奎吾書とある。清浦は23代内閣総理大臣。

21-02-02-s.jpg 右手に行くと、「新東京百景」「北品川宿共有地 金壹萬五千円也」などと刻された碑林の先に、高さ四㍍近い大きな碑がある。「従六位林交周君碑」である。林交周は、今の目黒区、品川区、太田区と世田谷区の大半を占めた荏原郡の 初代郡長。参謀総長陸軍大将大勲位彰仁親王(東伏見宮)題額、内閣総理大臣正二位大勲位侯爵伊藤博文撰書とある。書は顔真卿風と言うよりも、勢いと気迫に満ちた激しさがあり、いわば伊藤風であろうか。碑陰には、びっしりと建碑寄附者名が記されている。総勢2015名というから凄い。刻者は岸田清幸とあった。明治29年の建立である。

鳥居まで戻り、急な石段を登ると両脇に様々な奉納碑がある。左右一対のしゃれた燈籠、「入営軍人武運長久永代祈願塔」には、海軍大将山本英輔敬書とあった。軍靴が響きはじめた昭和12年の建立である。石段の左側には、「石段再建 火防稲荷講社中 宕嶺沖正脩書」と刻された、隷書の碑がある。明治10年に建てられたものだが、宕嶺のことはよく分からない。


風格漂う海舟、独特な響きの鐵舟書碑

石段を登りきると、正面に立派な拝殿が見える。参道の燈籠は江戸初期のもで、狛犬には、寛政四壬子の紀年がある。石鳥居は三代将軍家光に重用された堀田正盛が慶安元年に寄進したもの。参道の右手に「天地開闢 大日本大社廻」と風格のある書を刻した碑があった。側面にも「神社佛閣四國四拝」などと刻されている。正面に刻された落款に「応需 勝安芳書」とある。背面に刻された何人かの祈願者に頼まれたのであろう、勝海舟のどっしりとした風格の書である。碑は、明治26年に建てられているが、宝物館に海舟揮毫の刻字額「葵神輿」があるのを見ると、海舟とこの神社と関わりは相当深かったようだ。

海舟書碑の周りには、社殿改修の奉納碑や、御嶽神社、三笠神社を崇敬する講元の記念碑が建ち並んでいる。鉄骨とボルトで補修がされた大きな碑には、八海山、御嶽山、三笠山の大神が勢いのある草書で刻されている。正四位山岡鐵太郎謹書とあるが、崩しがやや抑えめなのは神々へ畏敬の念を籠めてのことであろうか、独特な雰囲気を醸す。碑陰には、「先達保川翁勒行碑」とあり桂潜太郎の撰文が楷書で刻まれているが書者の名は無い。この碑は、三笠山元講が明治18年(又は、17年。補修の継ぎ目で数字がはっきりしない)に建てた。山岡鐵太郎は明治15年に宮内省を辞し、春風館道場を開き、翌年谷中に全生庵を建立している。維新の志士たちを慰霊し、仏教を復興することに情熱を傾けた鐵太郎は、揮毫によってこの資金を調達したという。

佐藤寛著「山岡鉄舟幕末の仕事人」によれば、明治18年12月に鉄舟は、「書法について」を述懐したという。その中で、「(この一年間に)私の楽書したものは、額、軸合わして、総数一八万一千余り」と言っているというから、書碑も相当揮毫したと思われる。因みに、明治18年は初代内閣総理大臣伊藤博文が誕生した年でもある。近くに「覚明霊神」など三神を刻した碑がある。二品熾仁書とあり、有栖川宮が書している。これも三笠元講が建立したもの。


 「東海七福神めぐり」と昭和の碑

海舟書碑の右手には、昭和26年に建てられた「立春初詣 東海七福神めぐり発祥の碑」がある。初春の七福神めぐりは江戸時代に盛んに行われたようだが、東海道品川宿を歩く「東海七福神めぐり」は、品川が東京に編入されてからのことのよだ。隣接郡町村を合併して世界第二位(497万人)の「大東京」が生まれた昭和7年に行事はスタートしたという。岩本素白は、「ここは昔から宿場町で、江戸でもなく田舎でもなく、いわば三分の意気と七分の野暮とがこぐらかったような土地である」と『東海道品川宿』で述べている。そうした品川が、大都会の仲間入りを果たし、お祭りムードの余勢を駆って大いに人を呼ぼうと言うことなのであろう。品川神社の大黒天、養願寺の布袋尊、一心寺の寿老人、荏原神社の恵比須、品川寺の毘沙門天、天祖諏訪神社の福禄寿、磐井神社の弁財天と続く。京浜急行の北品川駅から、大森海岸駅の先まで続く長丁場、ひたすら歩くだけで一時間強の道のりである。品川北本宿から目黒川を渡り南本宿の外れは荒神を祭る海雲寺の辺りだったらしいから、ここまでが品川宿であろうか。鈴が森の刑場を過ぎて磐井神社に至るともう外れの外れなのだが、大森海岸は、昔は行楽地でもあったので、東京市民の観光スポットとして誘客を狙ったのであろう。この七福神めぐりの行く先々は、品川の訪碑行とも重なる。
冬の碑巡りは、辛いものがあるが、行く先々で別な愉しみ方ができるのも一興、結構なことである。(匠出版刊『書21』32号・33号参照)
 
そばに品川の鮨商達が建てた「包丁塚」が数基ある。ひときわ高いものに内閣総理大臣三木武夫書とあった。その隣には、「恩賜養老杯碑」がある。昭和天皇御大典(昭和3年)の際に八十歳以上の長寿者に天杯と酒肴料が下賜されたことを記念した碑である。長寿者44人の名が記され、春翠野瀬致博書とあった。その右には、昭和7年に品川神社が報知新聞社の制定する新東京八名勝に選ばれたことを記念する「八名勝入選の碑」(東京市長永田秀次郎書)や、江戸消防記念碑などが建ち並んでいる。



拝殿奥の板垣退助墓所と碑

拝殿の左には、水屋があり、水盤が置かれている。石鳥居と同じ慶安元年に堀田正盛が寄進したものである。そばに立つ「一萬度参拝」と刻された碑は明治34年のもの。反対側の砲弾型の碑は、「忠魂碑」とあり乃木希典の書。社務所改修碑の横を拝殿の裏に抜けると板垣退助の墓所がある。東海寺の塔頭寺院が移転し、墓地だけ残されていて神社裏からのみ道が通じている。
 板垣退助の立派な墓の前には、佐藤栄作揮毫の「自由党の碑」がある。墓地の入り口には、自然石に「秋の日に...」を刻む句碑があり、大正九年の紀年と鈴木安五郎の名がある。板垣と関係があるとは思えないが、さてどうであろうか。


信仰の山、品川冨士


品川富士からの眺め 



石段まで戻り、「品川冨士」に登る。浅間神社の前から、おびただしい講社記念碑がある。
裏側の登り口にある句碑は、安政3年のもので「翌日は誰が花の主か山佐久羅 七十翁和海舎如亭」とある。品川だけに意味深な句...。海側の中腹には、安政元年に建てられた、「寒緑松本先生之碑」がある。碑主は幕末の儒者で海防論の先覚者と言われる松本寒緑。碑文に「宕陰鹽谷世弘製文 松前石井士■(萬+力)書 會津平尾忠告題額 窪世升刻」とある。
碑は高さ188cm、碑陰記は山肌に接してほとんど判読できなかった。そばに延享2年建立の「人丸大明神碑」がある。「ほのほのと...」と、人麻の歌を刻み、神道長卜部兼雄とあった。
  冨士から臨む、帆船ひしめく江戸湾の眺望は今はもうない。京急の高架の先に、林立する高層ビルが新たな景観をもたらしていた。

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