2008年11月 6日

第20回 品川・東海寺(2)東京の碑

01-s.jpg大山墓地の褞邨、單山、金洞、百川 

 賀茂真淵墓域に入って鳥居右側の横長の碑(図1)は、明治になって墳墓を改修した記念碑である。


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(図1)


01-02.jpg 明治21年に建てられたもので「賀茂翁墳墓改修之碑」(図1−2)と題がある。徳川達孝題辞、小杉褞邨書、井亀泉刻とあり流麗な漢字かな交じり文が刻されている。小杉褞邨(天保5〜明治43・1838〜1910)は難波津会の創設に尽力した人で上代仮名の研究で功績を残した。

(図1−2)




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(図2)


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(図2-2)


02-03.jpg(図2−3)

 南郭の墓地の方へ戻ると右手に松浦家墓域(図2)がある。真ん中の墓が、「松浦君配原田氏墓」(図2−2)である。墓誌には嘉永元年生、紀元二千五三十三年罹病、壽二十四年葬とあり年齢からすると明治四年、紀元からすると明治六年以降になり計算が合わない。墓は、国学者松浦辰男の夫人(須賀子)のもので、碑文は、菱湖風の端正な楷書である(図2−3)。島津定撰、單山常書とある。高斎單山(文政3〜明治23・1820〜1890)は、名を有常と言い田安家に仕え、書は巻菱湖に書を学んだ。明治初期の書家番付の上位ランク者であるが、今は知る人も少ない。古文字学で有名な高田竹山は若年時代に書の師と仰いでいる。左隣の墓は、「従七位勲六等松浦辰男墓」と顔真卿風の表題があり、側面に「萩坪起陽居士」(左側)「明治四十二年十月十七日歿」(右側)と立派な隷書が刻まれているが書者の名はない。この墓は、桂園派最後の歌人と言われ、柳田国男や田山花袋の和歌の師もあった松浦辰男のものである。

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(図3・図3−2)

 墓地の中程にり、江戸中期に「貞享暦」を創り幕府天文方となった渋川春海の墓(新幹線沿いにある)の方へ行くと、その手前に碑がある。「技師三浦君殉職碑」(図3・図3−2)である。明治27年の建碑で従二位一等伯爵後藤象二郎題額、愛媛県知事正四位勲三等小牧昌業の撰文を金井之恭が書している。金井之恭(天保4〜明治40・1833〜1907)は金洞と号し内閣大書記官、貴族院議員を務めた。書は中澤雪城に師事し、後に貫名海屋に傾倒したと言われる。
明治期には書の大家として著名な人で多くの碑文を揮毫している。

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(図4・4-2)

 新幹線に向かって右に行くと、一際高い墓碑がある。「陸軍少将櫻井重壽之墓」(図4)である。明治37年の建立で、隷題は齋藤利恒、墓誌銘は依田百川撰并書とあった。百川は、森鴎外の師であり、「文淵先生」のモデルと言われる。依田学海(天保4〜明治42・1833〜1909)のことである。刻字は整斉とした楷書である(図4−2)。

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(図5)

その奥に天を突くような、「頭上是天脚下是地」と刻された碑(図5)がある、台座部分に銘文があるが掘りが浅く磨滅して読みづらい。明治17年の鉄道工事の際に辺りから出土した白骨を慰霊して、明治19年に建立した碑のようだ。その先の、東海道線と、山手線・新幹線の分岐する先端部分に、明治期の鉄道敷設を陣頭指揮した井上勝の墓がある。そばに真新しい「鉄道記念物」碑があった。

 墓地には立派な銘文が刻まれている墓碑がいくつかある。沢庵禅師墓域の左側、奥にある「従五位勲五等村上佳景之墓」は、明治四十二年の建立で、墓の主は荏原郡長を務めた人である。前東京府三浦君題とあるのは東京府知事、宮中顧問官などを務めた三浦休太郎のことであろうか。東肥志方崇粛撰、北越村上佳知謹書とあるが、碑文から佳知は親族と分かるのみで不明、書は端正な楷書である。

真淵墓域裏にある「鬼塚君黄中之墓」は、力強い行書の題が刻された明治十九年六月建立のものである。碑文は、岡松辰撰、土肥直康書とあり楷書である。土肥は不明であるが、岡松は、昌平黌、東大教授などを務めた漢学者で甕谷と号した人。




東海寺の仁賀保香城


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(図6)

 大山墓地を東海道線に沿って下ると、山手通のガード脇に新しい碑があった。昭和四十年に建てられた「近代硝子工業発祥地碑」である(北品川4−11−5)。側面に諸橋轍次撰、石井玉泉書、本所石勝刻とある。碑は、官営硝子製作所跡に建てられたもので、煉瓦づくりの建物の一部は愛知県犬山市の明治村に保存されている。

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(図6−2)

 山手通を京浜急行新馬場駅彷徨に歩くと、右側に「東海禅寺」と刻された石柱が建つ通路がある。門を入ると、正面に1978年に建てられた「原爆犠牲者慰霊碑」がある。右側の仏殿の裏には、下総佐倉藩堀田家の墓域がありその奥に仁賀保香城書丹の碑が建っている。「池田謙三翁追悼碑」(図6)である。昭和八年十月の紀年があり、題額は梨地に陽刻され、碑文はゆるぎない楷書(図6−2)である。従二位男爵山本達雄題額、仁賀保成人撰并書とあった。碑陰には青山石勝刻とある。成人は仁賀保香城(明治20〜昭和20)の名である。香城は、東方書道会創立に参画して顧問に就任し、書道界に尽力した人で平尾孤往(日展評議員)などを育てた。秋田藩の家老を務めた家柄の出身で、若年より漢詩人としても著名であった。堀田家墓域の前には「長谷川家之墓」と立派な隷書が刻まれた墓碑があり、鈴木寛一書とあった。後ろは丹波篠山藩青山家の墓域で、昭和四年に青山忠敏が書した碑があった。



清光院の末松君碑

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(図7)

 目黒川を渡り清光院の前庭に戻ると、塀際に碑がある。右側が欠落し、部分的に残った碑の欠片が下においてある。「末松君碑」(図7、図7−2)とあり、大正11年7月の紀年がある。碑文の断片的な経歴から碑主は、内務大臣を務めた末松兼澄と判明したが、撰文、書者は土中に埋まっていて不明。行末に枢密顧問官従三位勲一等とあり撰者と思われるが、大正11年7月当時の枢密顧問官は複数居て推定することが出来なかった。

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 (匠出版刊『書21』第32号「江戸・東京の碑」で周辺の碑を紹介しているので参照されたい)


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