2008年8月 1日

第18回 白金台から上大崎へ



(図1)「瑞聖寺後庭築假山記」碑


 白銀台駅から八芳園の方に行くと、目黒通りの右手に瑞聖寺(港区白金台3−2−19)がある。ここは、江戸時代からの由緒ある禅寺で、 本堂は明様式を伝える江戸中期の黄檗宗仏殿として国宝に指定されている。本堂に掲げられている「大雄寶殿」の額は、開山木庵禅師揮毫のもの。 本堂の中には米元章の対聯の額もかけられている。庭の鐘楼のそばに古い碑がある。「瑞聖寺後庭築假山記」碑(図1)である。文化2年(1805)の建碑 で、全文が篆書で刻されている。末尾に、龍洲三井親孝謹書とある。親孝は三井親和の子で、名を孫三郎と言い、文化5年(1808)に没している。書画を善 くし、書は親和譲りの篆書でならしたという。「書道グラフ 東都碑碣紀行(三)」に拓本が掲載されているが、標題が「根来君墓碣銘」と誤って記されてい る。小著「江戸・東京の碑」(季刊書21収載・心交社刊)でも碑名をそう記したが、今回碑文をよく読んでみると、「瑞聖寺後庭築假山記」とある。浅学非才 は致し方ないとして、碑文を読むという初歩的なことを怠って書いたことに今は恥じ入るばかりだ。港区教育委員会刊の金石資料を引っ張り出して調べてみる と、この碑のことは載っていないが、寺の墓地にある「靖良根来君墓碑銘」の碑文が掲載されていた。墓誌銘の末尾に、寛政壬子(四年・1792)とあるの で、建碑の時期に13年ほどの開きがある。

「瑞聖寺後庭築假山記」碑面

 墓地には、このほか高さ四メートルに及ぶ大碑「海軍中将男爵坪井航三君追悼之碑」があるという。篆額は西郷従道、撰・書は海軍大将伊藤祐了で、井亀泉が 刻している。「内田正雄君墓銘」は、重野安繹撰、巌谷修書、広群鶴刻とあった。また、伊藤博文の父母の墓があり、「伊藤十蔵墓誌」を巌谷修、「伊藤琴子墓 誌」を金井之恭が書している。それぞれ実見したいものだが、墓地への一般の立ち入りは許可されていない。

(図2)「中西淡淵墓碑」

 目黒通りを目黒方面に歩くと、自然教育園が右に見えてくる。外苑西通(プラチナ通り)を過ぎて自然教育園の塀沿いの道を右に入ると法蓮寺 (港区白金台5−13−34)がある。ここにある「中西淡淵墓碑」(図2)は宝暦二年(1752)の建。 撰文は門人の細井平洲。 写真のようにかなり凹凸のある自然石の面にそのまま刻しているので碑文は読みとりづらい。最近法書会の「書苑」を見ていたら 、 この拓本がかなり鮮明に載っていた(大正七年九月刊・九巻第三号 関東訪碑記(三)茅原東學著)。 小字だがメリハリのある隷書である。 細井平洲は、上杉鷹山の師でありその藩政改革に多大な影響を与えた人である。晩年は尾張藩に仕え、藩校の初代督学(学長)を務めている。 書もおそらく平洲であろう。

(図3)「故播磨守蓮安戸川安清墓」

 目黒通りにもどり、東急ストアの左手の路地を少し行くと、品川区上大崎の寺町に出る。この辺りは、寛政の頃に増上寺の子院が移転して寺町が出来たところで、 九カ寺の名を書いた標識がある四つ角を左に行くと、突き当たりが最上寺(上大崎1−10−27)である。門を入った右手の塀沿いに 「故播磨守蓮安戸川安清墓」(図3)がある。正面の墓表は、隷書で書かれ、蓮庵の自書とされるが、ほかの三面は何も刻されていない。 因みに谷中墓地には、蓮庵の壽蔵之碑があり、やはり隷書で自書している。蓮庵は幕府旗本で勘定奉行、長崎奉行を務めた人で、書を善くした。 門を入って本堂寄りの通路の右から二つ目に「畑六郎左衛門君碑」(図4)とある。この碑は、蓮庵の師市河米庵が隷書と楷書で書している。碑文に 「天保九年歳次戊戍冬十月 安積信撰 河三夾書 廣羣鶴 富川吉住合刻」とあるが、信は安積艮齋の名である。艮齋は佐藤一齋に師事し、 二本松藩藩儒を経て幕府昌平黌教授を務めたた人で、重野成齋、中村敬宇、三島中洲など明治の高名な学者の多くが彼に教えを受けている。 三夾は市河米庵の名である。碑主の畑六郎左衛門は新田義貞の武将で、十五世孫秀重がこの顕彰碑を建立した。重秀は、戸川家の家臣という。

(図4)「畑六郎左衛門君碑」

「畑六郎左衛門君碑面」

 隣の本願寺(上大崎1−10−32)には、三木武夫の寺号額がかかり、門のそばの植え込みに「月夕窓調和先生遺髪碑」(図5)がある。 正面は題額と月夕窓の自詠の歌、裏面は垣根でさえぎられて総ては読めないが漢文で「遺髪冢序」が刻されている。「春田永年静甫撰、寛政十一年歳次巳未 牛山箕騰世龍書併篆題額 松鶴年刻」とある。

(図5)「月夕窓調和先生遺髪碑」


(図5)「月夕窓調和先生遺髪碑」

本願寺隣、常光寺(上大崎1−10−30)の門を入って右に「和田義郎君碑」(図6)がある。漢字かな交じりの碑文に「福沢諭吉涙を揮て之を記す」とあるから諭吉の撰文である。 賜硯堂成瀬温書とあり成瀬大域が書しているが、白いペンキが入れられいささか風情が殺がれる。成瀬の賜硯堂の号は、「集字聖教序」を書いて、明治天皇から硯を賜ったことに由来するという。 碑主の、和田義郎は、慶応幼稚舎の創始者である。諭吉も、明治34年にここに葬られたが、後に元麻布の善福寺に改葬され墓はここにない。 現在その跡地に「福沢諭吉永眠の地」碑が建っている。本堂前の植え込みにある江戸時代の「阿弥陀経供養塔」も見事なものだ。

(図6)「和田義郎君碑」
 寺町を時計回りで廻った常光寺の反対側に清岸寺(上大崎1−5−15)がある。墓地の奥に明治22年(1889)に建てられた 「履堂松平君墓碑銘」(図7)がある。井亀泉の刻で、天野性書とあった。隣の光取寺(上大崎1−5−10)には「田能村竹田先生碑」があり、 大正13年に東京のゆかりの人々が建てたというが書者の名はない。傍らに、菩薩像を刻した庚申塔(図8)があり、如意輪観音像に安らぎを覚える。無惨な跡 のある不動明王像は米軍の空襲で、焼夷弾があたり破損したものという。ここの墓地には十二代横綱(慶応元年)陣幕久五郎(土師通高)が眠る。


(図7)「履堂松平君墓碑銘」


(図8)「庚申塔」

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